女神の翼のもとに

In The Shadow of Her Wings
女神の翼のもとに


 これからアショーカの短篇を数本、翻訳、掲載する。
むろん、著者の了解を得ている。
おそらく月に1本ないし2本というペースになると思う。


 これらの翻訳は著者の指示により、クリエイティブ・コモンズの「表示・非営利・改変禁止」ライセンスのもとに公開する。



 原作の短篇は著者が自らのブログに公開しているものだ。
本作の原文はこちら


 この作品は2001年に Interzone に初出。西欧世界での著者のデビューに当たる。
後に David G Hartwell & Kathryn S Cramer 編の YEAR'S BEST FANTASY 2 に再録。
Infinity Plus のサイトと、フランスのアンソロジー L'ATALANTE にも再録された。



 カーリー国境の警備はデヴィッドの予想より遙かに手薄だった。ボディ・チェックはおざなりだったし、その他のテストも旧式のものだった。1998年のポカランの核実験の後、若きヒンドゥー原理主義活動家としてインドの核実験場の一つに侵入したときのことを思いだした。もっともこの点は事前情報の通りではあった。21世紀式の安全対策をカーリーはほとんど採用していないのだ。


 国境の警備兵たちはまたたく間にチェックを終えると、検問所の地下からコンクリートのトンネルに案内した。長さは少なくとも1キロはあるだろう。だが、何度も角を曲がったから、確実にはわからない。2キロ以上かもしれず、半キロ以下かもしれなかった。それにしても無防備なのには驚いた。あれだけ念入りに準備したにしては拍子抜けしてしまう。この紛争地帯に入るのに、本当にこんなに簡単でいいのか。通常の安全対策用装備で固めたブラック・キャット・コマンド一個小隊で、この検問所と入口は数分で押さえられる。地上で眼にした十人あまりの国境警備兵は武器を持っている気配もなかった。あまりに簡単でばかばかしい。


 その時、最初の事前説明を思いだした。あれが一番長かった。


 カーリー主義から寝返って、DTTF すなわち紛争地帯処理部隊の顧問になっていたシャリニタイは、カーリーの政治史についての説明でまさにこの点について触れた。


 「カーリーの無防備なところにだまされてはいけません。あそこはカーリーの名の下に国家としての地位を求めていますが、名前をいただいている女神と同じく、物理的なものよりも遙かに危険な兵器で武装しています。霊の力、信仰の力で武装しているのです」


 デヴィッドはあくびを噛み殺した。この類の「徒手空拳霊力」の狂信者の話はもう聞きあきていて、馬鹿にする気にすらなれない。それに、どれも同じように惑わされた盲目的な狂信者たちが、安全対策兵器の射程内に入ってくるのも何度も見ている。そいつらのまったく現実的な肉体が、霊的力のかけらもない弾丸や爆発物にバラバラになったものだ。弾丸や爆弾はといえば、致命的な効果を発揮するのに、眼に見えない神々を信ずる必要はまるでない。信仰は山をも動かすかもしれないが、レーザーは肉体を刻む。そして肉体に支えられなければ、信仰が宿れるものは何も無い。


 本気にせず、退屈しているのを見てとって、裏切り者は言葉を切り、そっとため息をついた。こちらが無関心なのに半ばあきらめ顔でつけ加える。


 「カーリーが存続しているのは、ひとえに人びとがその存在を支持しているためであり、インドがなお民主主義を掲げているからです。それは安全対策用兵器などより、遙かに恐るべき防衛力です」


 こちらの方がまだわかる。こうくれば政治的な話で、国家規模のあのカルト集団はそれを頼りに、信仰と政治信条の自由という仮面に隠れて、共和国の片隅に化膿した傷のような存在を許されているのだ。相手の女の黒い眼には、今の言葉に反論して見ろとでも言うような、敵意のこもった光があった。が、デヴィッドは政治論議で時間をつぶすにはあまりに皮肉屋だった。言わせてもらえば、事前の状況説明も、動機付けのための説諭も無くてもかまわなかった。政治的に確信が持てたからと言って、仕事がやりやすくなるわけでもない。


 どう理屈をつけようと、暗殺は殺人なのだ。進んで人殺しをするのにデヴィッドが必要なのは、報酬だけだ。こちらが笑おうとしないので察したのだろう、シャリタニイはあとの説明を呑みこんだ。水を一杯ついだのは、不意に話題を変えるためだ。


 「ドゥルガー・マアを暗殺するのに、何の抵抗もないでしょう。こんなに簡単な暗殺はこれまでもしたことがないはずです」


 デヴィッドはオチを待った精神訓話にオチはつきものだ。


 「自分がしたことの自覚で、これから死ぬまであなたの人生は耐えられないものになります」


 デヴィッドはにこりともしなかった。する必要もなかった。うかがい知れぬ表情の陰で笑っていることは、相手にもわかっていたからだ。女の眼を見ればわかっていることは読みとれたから、最後の手札をぶつけたのに効果がなかったので女が味わっているはずの欲求不満の影を探した。かけらもない。ただ、かすかに同情が覗いているだけだ。


 「この仕事をするのはお気の毒です」


 これにもにこりともしなかった。憐れみをかけられるのはこれが初めてではない。まずたいていはこの反応を見せる。さもなければ独りよがりに怒りだす。


 廊下を最後に曲がるといきなり階段の入口に突きあたった。ひどく狭い階段だ。低すぎる天井と狭すぎる幅の間に、大きな体を縮め、押しこむように入る。登ってゆく一行の足音がせまくるしい空間に耳障りに響いた。女の警備兵たちは体つきも小さく、しなやかで、先に立ってどんどん行くのでデヴィッドはついてゆくのにひと苦労だった。インド各地に昔からある要塞には行ったことがあるから、この階段の原理はよくわかる。ここでは侵入者は一列になって戦わざるをえず、しかもぎこちなく背をかがめていなければならない。この階段を守るのは一人で足りるし、負傷者や死体が重なれば、進むのはさらに難しくなる。


 この防衛体制を抜くのは、事実上不可能だった。千年前にはだ。壁や天上に細い切れ目が入っているのが眼に入る。そう言えば、廊下にもずっと同じような切れ目があった。通気口だと思っていたのだが、なるほどこれは衛兵の隠れ場所なのだ。廊下の照明は上からで、果てしなく登ってゆく一行の姿は明るく照らしだされている。が、壁の向こう側にいる衛兵の姿は、実際には見えない。


 デヴィッドは感心もしなかった。こんな中世風のカラクリや防衛体制は、現代の安全対策の敵ではない。安全対策バイオ・ガス・カプセルが一個あれば、外からは見えない守備隊全員を一掃することもできる。カプセルを廊下に入れてやる方法はいくらでもある。バイオ・ガスは自然分解するので、たった三秒で空気はまたきれいになる。あほらしいほど時代錯誤のカーリーの防衛システムはそれで一巻の終わりだ。登ってきた階段が千段を超え、かがめた姿勢が苦しくなり、コンクリート壁にぶつけた肘や肩の擦り傷がヒリヒリしはじめていた。その時、ようやく階段が広く高くなって、背を伸ばすことができた。出たところは石の塔の中の小さな円形の部屋に似ていた。これも明らかに中世の様式だ。


 こいつはちょっとした皮肉だな。案内されるままに、廊下やつなぎの部屋を次々に通りぬけながら、デヴィッドは思った。これまで眼にしたのはカーリーのごく一部でしかないが、それは中世のインド建築をモデルにしていることはすぐにわかる。ところがカーリー自体は、おそろしく手間暇をかけて、自分たちはインドではないと主張している。このちっぽけな紛争地帯に逃げこんだ70万ほどの反逆者たちに言わせると、ここはインドではない。インドの国内法も国際法も無視して、自分たちは独立の主権国家だと宣言しているのだ。


 マハラーシュトラ、マドゥヤ・プラデシュ、オリッサの各州に囲まれた中部インドのこの狭い地域は、ここにいる狂信者集団にとってカーリー国なのだ。世界で唯一の女性だけの国家として、かれらが独立を守ろうとする激しさに匹敵するのは、もう四分の三世紀以上も昔、ナチスによる第二次大戦中の大迫害(ポグロム)後のイスラエルぐらいだ。最もインド政府にとっては、ここは単なる〈紛争地帯〉にすぎない。かつてカシミールで、パキスタンが占領していた地域が受けたのと同じ指定だ。それも十年前、インドがパキスタンバングラデシュ、ネパールと「再統合」されて、過去のものとなった。統一インドとしてはカーリーのような存在を是認するわけにはいかない。ましてや独立国として認めるなどもってのほかだ。デヴィッドが今ここにいるのはそのためだ。根を断つことで問題を解決しようとしている。


 女王蜂を駆除すれば、巣は絶える。


 警備兵たちが後ろに退がったので、デヴィッドは驚いた。いったいぜんたい、どうしてまた一人だけで先に進んでいいというのだ。だが、問いかけるように兵士たちを見ると、一隊のリーダーははっきりと廊下の奥を指さした。リーダーは背の低い、肌の黒い女で、左の頬から首にかけて傷痕がある。ここから先は一人で行けというのだ。


 デヴィッドは肩をすくめて先へ進んだ。まったくこれじゃ警備とも言えないじゃないか。まるでトウシロだ。数百歩進んでからようやく、この廊下は他とは違う妙なところがあると気がついた。足音がまったく響かない。廊下の突きあたりまで来て、ようやくその理由がはっきりわかった。そこも円形の部屋だった。


 壁の細い切れ目からは、真暗な地下通路も見えず、天井から照らす照明の光もなかった。そこに覗いていたのは、真青な明るい空だった。なるほどここは塔の中なのだ。事前打合せで見た何枚もの衛星写真には、巨大な建物が映っていた。ここはまさにあの建物の中だ。これと同じような塔が、この国のぐるりの境界沿いに、等間隔で何百となくならんでいた。この塔は防衛の前哨線で、紛争の対象たるカーリー領を周囲のインド領から分けている〈規制ライン〉を監視していると考えられていた。


 「デヴィッド大使ですね」


 陽光のさしこむ部屋で待っていた女が言った。


 「どうぞ、おすわりなさい」


 床の上の薄い布の敷物に招く。そっくりの敷物にすわって、女はヨーガの蓮の座に脚を組んでいる。デヴィッドは部屋の中と周囲を見わたした。まさか、ほんとうにこんなに運がいいとは。衛兵もいない。武器もない。防衛機構もない。つまり安全対策が何もないのだ。


 こんなに簡単に任務を果たせるなんて、話ができすぎだ。おちつきはらって自分を見ている女にあらためて眼を向ける。


 「私がドゥルガー・マアです。あなたが暗殺しようとしている当人です。どうしますか、大使。すぐに私を殺す方がよいですか。それとも少しは外交交渉の形を整えますか」


 デヴィッドは眼を白黒させた。


 女は笑みを浮かべた。


 「まず暗殺をかたづけてしまった方が良いのではないかと思います。そうすれば、あなたも気兼ねなく、あなたが直面しているより大きな問題について話しあう余裕ができるでしょうから」


 そう言って女は大きく両腕を広げた。どこでも通じるヒンドゥー式歓迎のしぐさだ。


 「ようこそ、死の天使よ(スヴァ・スワガタマ・ムリティウダアタ)」


 頭の中に蓄えられたあらゆるデータが、これは罠だと示していた。が、たとえそうだとしても、こんなチャンスは見逃せない。おれの任務は理由をさぐることじゃない、殺して高飛びすることだ。すぐに行動に出なかったのも、もう一度念のためスキャニングをかけるためだった。結果はこれまで三度やってみたのと変わらない。身許確認もまちがいない。確認には1ダースほどの方法を使っている。DNA も完全に一致している。眼の前のこの女はドゥルガー・マアだ。カーリーの創設者にして指導者。今回の標的だ。


 親指の爪で左手首の小さな半月形の切込みを浮かせ、強化シリコン製の針を腕の中から引きだした。直径はわずか10ミリメートルだから、しっかり握らねばらない。掌で全体をぬぐい、油と数滴の血を拭き取った。太い静脈に似せた色がつけてあったから、標的につめ寄るとき、針は陽光をとらえて透明な緑色にきらめいた。抵抗や奇襲がないか、一分の隙もなく感覚を研ぎすます。何もない。命を奪う針を肋骨の間にさしこんでも、女の笑みはくずれなかった。暗殺者の手の下で、女の胸は柔らかく、暖かい。


 強く押しこむ。20センチの針は根元までなめらかに女の胸に入った。左心室に穴があき、貴重な血液があふれるのが眼に浮かんだ。女の眼のおちつきはらった表情が揺らぎ、薄れるのが見えた。


 「カーリーのそなたとともにいますように」


 そう言って女は息絶えた。両脚がまだヨーガの姿勢に組んだままだったので、体は横様にぐったりとなった。デヴィッドが女の太股を蹴ってはずすと、より自然な形に体が伸びた。体の下に黒いものが広がった。


 男は立ちあがり、あたりを見まわした。まさかこんなに簡単にすむとは信じられない。急に不安が突きあげてきた。女の態度、自分が暗殺に来たことを女が知っていたこと、自分の死をおちつきはらって迎えたこと。こいつはおれの手に余る。これ以上ないくらい狂信的なカルトの教祖でも、最後は生きのびようと必死にあがくものだ。生きものには自己保存本能ってものがある。だが、この女はほんとうに死ぬのが平気だった。いや、いまはそんなことを考えている場合じゃない。一番難しいのはこれからだ。逃げねばならない。選択肢を検討してみると、どれもマイナスの成功率しかなかった。失敗の確率が最も小さい(12.67%)のは、この塔の壁に穴をぶち抜き、外壁を駆けおりる方法だ。が、それは武装した警備兵が待ちかまえていて、強力な報復をしかけてくる場合だ。そんな様子はない。部屋の外周に沿って、階段が螺旋を描いて下へ続いていた。


 デヴィッドはこの石の階段を音もたてずに駆けおりた。武装した抵抗の徴候に気を配る。下の階に降りると、そこは上とほとんど同じ部屋だった。家具はほとんど無く、床には同じ編んだ布の敷物がある。


 そして女がひとりいた。


 女を見て男はたち止まった。ドゥルガー・マアよりは若い。が、若白髪が髪にまじっていて、一見したよりは老けて見える。服装は似ているが、まったく同じでもない。手元のデータにこの女に適合するものは何もなかった。それに凄い美人だ。


 男が降りてくるのを待っていたように、女は顔を上げた。湯気のたつ茶の入った鉢と、陶製の茶碗が二つ、その前に置かれている。


 「ようこそ、デヴィッド大使。愛するシスターが亡くなったので、今は私がドゥルガー・マアです。すぐに私を殺しますか。それともまずお茶を召しあがりますか」


 そう言って同じく歓迎の徴に両腕を広げて見せた。


 こいつは策略だ、警備兵が来るまでの時間稼ぎにちがいない。反射的にそう思った。しかし、体内のシステムによれば、半径百メートル以内に接近してくる者は一人もいない。この部屋の中に安全対策用武器は何もない。現実的な危害を加えられるものは何もない。眼の前にすわっている女に適合するIDをシステムが知らせてきた。スキャンの結果を何度も確認しながら、不安の念が広がるのを押さえられない。信じられん。


 どうやってかわからないが、ほんの数秒の間にこの女は体内の DNA 組成を変えてしまっていた。おまけに肉体の外見は変わらないままなのだ。あらゆる点でこの女は自称しているとおりの存在、ドゥルガー・マアなのだ。遺伝子を作っている最も小さなねじれた糸にいたるまで、カーリーの指導者だった。


 女は男に茶をついだ。


 「二人の女がどうして同じIDを持てるのか、あなたには理解できないのですね。科学的に不可能なことだと思っている」


 女は男に茶碗をさしだした。男は身じろぎもしない。まだ点検作業を繰り返していたのだ。軌道上のシステムを呼びだして処理能力を高め、他のデータベースにアクセスし、可能性のありそうなありとあらゆるケースを試してみた。女は男のために用意された敷物の前に茶碗を置いた。


 「そのとおりです。科学では説明できません。ですが、信仰では説明できます。ドゥルガー・マアはひとりしかいません。つまり同時に二人はいないのです。ですが、死ぬとその人格と存在、私たちはそれをアートマンと呼ぶのが好きですが、そのアートマンは次のものへ手渡されます。それが私です」


 「アートマンだと」軽蔑した声で繰り返す。「つまり、魂ってことか」


 女は自分用の茶碗に茶をついだ。その動きは繊細ながら決まっていて、見ていてとても気持ちがよい。骨太で北インドの人間なら、美しい体と思うだろう。もっとも南インドの人間の眼には、アーリア色、バラモン色が強すぎると映るはずだ。


 「魂は在るのです。科学ではその存在を証明できないかもしれませんが。私には今ドゥルガー・マアの魂が宿っています。ですから私がドゥルガー・マアです」


 女は自分をさした。


 「この肉体は単なる殻です。重要なのは中にいる人格です。私は今カーリーの化身です。生きていたときのドゥルガー・マアと同じです」


 デヴィッドは低く含み笑いをした。


 「化身だとか、アートマンだとか、何だそれは。ネットテレビのドラマか。そんな高級な話が効くのは、無知な信者だけだぜ」


 女は両手で茶碗を包んでいる。アジア式だ。


 「納得していませんね」そう言って茶をすする。「予想されたとおりです。けれどもこのことはあなた方のテクノロジーでも疑う余地無く科学的事実と証明できるのですよ」


 女は床の上に茶碗を置き、先ほどと同じく、世界共通の歓迎の意志を現すしぐさをしてみせた。大きく両腕を広げたのだ。


 「私を殺してごらんなさい。そうすればその眼で見られます」


 男がためらったのはほんの一瞬だった。ここで殺しても失うものは何もない。今回は手許にあるものを使った。茶碗を割り、陶器の尖った破片で喉をかき切った。やりなおす必要はなかった。女が生命を石の床にふきだしながら死んでゆくのを男はじっと見つめた。さしこむ陽光に、弧を描いて噴きだす液体が一瞬、朱色に変わった。


 好奇心もあったし、一番簡単でもあったから、次の階へ降りた。やはり部屋があり、やはり女がひとり待っていた。この女はずっと年をとっていた。北東インドの、準東洋的な顔がしなびている。ミゾ族か、ナガ族だろう。インド、ビルマ国境地帯の首狩り族の出だ。情け知らずのアメリカのバプテスト派伝導団によって、数世代前にキリスト教に改宗させられた連中だ。この女は前ふたりよりずっと口数が少なかった。が、スキャンの結果は今回もありえない DNA の変化を示した。むろん外見は元のままだ。無慈悲で効率的な殺し方をしてやった。強力な両腕で首をねじり折ったのだ。今回は死後の変化を子細に観察した。


 スキャンしていると DNA 構造が別のものに変わった。いや、変わったのではない。この女が女神の化身になる前の、本来のものに戻ったのだ。初めは狼狽したのだが、それに代わって激しい怒りが全身を駆けぬけた。こんなことはありえない。計画に入っていない。科学的に不可能だ。オリンピック選手並みのスピードで階段を駆けおりる。次の階に降りたったとき、変化が起きるのに間に合った。システムの「眼」を通して、変換が進むのを見つめた。RNA の鎖の分子配列そのものが変わってゆく。それからその四番目の化身――他にどう呼べばいいのだ――を、口を開く暇も与えずに殺した。女は左の眉に黒子があり、肌が黒いマラヤーラム人で血色が悪かった。髪にはヤシ油を塗っていて、それが指についた。頭を掴み、石の壁に何度も叩きつけたからだ。同じようなことがさらに数階続いた。「アートマン」が女から女へと移ってゆくのを追っていった。ドゥルガー・マアが遺伝子操作で再生した化身たちを次から次へと暗殺していった。


 二十三番目の階まで来た時、男は疲れを覚えた。体と服は血と脂にまみれ、さらにそれぞれの女特有のものがこびりついていた。茶、ヤシ油、セーターの毛糸、数珠の紐、ランゴーリー用の粉……システムによればこの塔にはきっかり百階ある。あと七十階以上残っている。そして男が送った最初の一連のデータを衛星の監視システムが解析したところでは、同じような塔が他に百本、この紛争地帯の外縁に沿ってぐるりとならんでいた。どれも百階建てだ。そのどれにも後継者がいるとすると、合計一万百人の女を暗殺しなければならない。男はたち止まり、他に方法はないか、再検討してみた。


 「認める方が簡単でしょうに」


 二十三番目の化身が言った。ひどく小柄な、少女と言ってもとおるような女だった。マハラーシュトラ人だ。黒い肌と黒い瞳を持つ、デカン高原出身のダリットだ。二十世紀には社会の一員とはみなされなかった人びと。マハトマ・ガンディーが「ハリジャン、神の子」と呼び、ババサヒブ・アンベドカー博士がダリットと名づけなおした「不可触賤民」。女は家庭用織機(チャルカ)を使って肩掛けを織っていた。機を両足で押さえ、しゃべりながらも手を休めない。


 「抵抗すればするほど、あとが辛くなりますよ」


 男の声には隠しようも怒りが現れていた。焦りが出て、伝説的な自制心も崩れかけている。


 「どうやってるんだ。遺伝子コードを衛星経由で転写してるのか。だったらモーフィングはどうするんだ。こんな類のテクノロジーなんかあるもんか。幻覚か何かにちがいないんだ」


 だが、巨大な処理能力を持つ機械は、どんな幻覚にも欺かれるはずはない。その機械がこれまでの「ありえない」変身を二十二回、くりかえし点検している。


 女は機を動かし、赤、白、橙色の毛糸を慣れた手つきで編みながら、答えた。


 「そんなに認めるのが難しいですか、大使殿。あなたは私たちと同じインド人です。科学で心が曇らされているヨーロッパ人ではありません。世の中には説明がつかず、ただそういうものだと受け入れるしかないことがあることは、ご存知でしょう」


 男は崩れるように腰をおろした。血のしぶいた両足に触れて、純白の毛糸の束が汚れたが、気にもかけない。女は舌打ちして毛糸を脇にどかした。汚れた糸をつまみ上げ、後で洗うためによける。


 「よかろう」


 もっと科学的合理性のある説明をシステムが探している間、ちょっと神学議論をしてもさしつかえはあるまい。


 「おまえらがみんな、女神(デーヴィー)の化身だと仮定しよう。だが――」


 「違いますよ、兄弟(ナコ・レ、バーバ)」女が口をはさんだ。「私たちはただの女です。ごくふつうの生身の人間です。デーヴィーの生きている化身が死んだ時だけ、次の順番のものが代わりに化身となるのです。わかりますか(サムジェ)?」


 女を見ていると父方の叔母(マウシ)を思いだして腹が立ってきた。どんな時にも自信満々で、何を言っても頑として譲らなかった。


 歯を噛みしめて、いらだちを押さえる。


 「だが、そいつは何回までできるんだ。限界がないはずはない」


 「限界(カシャサアンティ)ですか」女の口調はいかにもマハラーシュトラ流の事務的なものだった。「神話はご存知でしょう。女神というものは何度でもいつまででも生まれかわることができます。人間の世界では女神はアートマン、純粋な精神だからです。それにアートマンを殺すことはできません。『バガヴァット・ギーター』をもう一度読んでごらんなさい。武器で切りさくことはできません。風に吹き飛ばされることもありません。火でも燃やせません。水にも溶けません。土に分解できません。アートマンは不死の魂です」


 男は黙りこんだ。いま聞かされた一節を、オリジナルのサンスクリット語で教えたのも、他ならぬ同じマウシだった。美しい字体で書かれた『バガヴァット・ギーター』の写本をひろげたチャウパタの前に胡座をかいた叔母の姿がありありと眼に浮かんできた。いつもの、聞いていると気が狂いそうになる調子で、サンスクリット語のシュローカを朗唱している。忘れようとて忘れられない声だ。


 「なら、方法は一つしかない」


 沈黙を破って、男は言った。


 そして立ちあがった。女は織っていた手を止めて、眼鏡の縁越しに男を見あげた。


 「おまえら全員を蒸発させるしかない。一発でカーリー全体を一掃する。そうすれば、おまえらのいまいましい女神が避難できる体は残らないわけだ」


 ふりむいて歩きだしたが、そこで止まった。この女は殺しておかねばならない。うっかり口を滑らせてしまった。こいつは何らかの方法で仲間たちに知らせることができるともかぎらない。今言った、皆殺しの策に対して、何か手をうたないともかぎらない。だが、なぜか、どうしても女を殺す気になれなかった。どちらにしてもすぐに他のやつらと一緒にかたづけることになるんだ。歩きだすとまた後ろでチャルカの回る音が聞こえ始めた。


 紛争地帯を「消毒」するのに必要な承認を得るのに時間がかかったので驚いた。その方法は与えられた指示書に最後の手段の一つとして載っていた。そして反逆者集団に対する特命全権大使として、それを選ぶ権限を与えられていた。ここ十年の間にカーリーは統一インドの腹にできた悪性のできものになっていた。外国から寄せられる同情の声は、不平不満の色を帯びるようになっている。この反乱「国家」にアメリカやヨーロッパから移住してくる女の数がひどく増えだしてから、その傾向が強い。上司たちは何らかの形で最終的決着をつける必要が出てくることも考えられるとして、必要な準備をすべて整えた上で男を送りこんだのだった。上の連中はこの問題をただちに解決することを望んでいた。非同盟核保有国連合の三年に一度のサミットが来週ニューデリーで開かれる、その前にだ。デヴィッドはカーリー領内で核兵器とその実験跡を確認したと告発し、反乱側のテロリストとしての意図と能力の証拠を添えた。プログラムを一つ立ちあげて、この紛争地帯に自分が入ったことから生じる危機をシミュレートした。


 後日、人権委員会による必要な評価を受けても、自分の護衛や随員がカーリーのテロリスト部隊によって次々と拷問を受け、むごたらしく殺害される一連の事件を、このプログラムが完璧に再現するはずだ。男自身はそれからカーリーの恐るべき核施設を見せられ、理由なくインドを攻撃する意図を世界中に告げるよう指示される。まだ埋めるべき穴や隙間はいくつもあるが、それはいずれもこの見えすいた口実にほんとうらしさを加えるものばかりになる。核ミサイル衛星は位置について、発射準備を整えていた。男が指示を送りさえすれば、いつでも発射できる。この時にはデヴィッドはトンネルを抜けて引きあげていた。入国した検問所まですぐだった。警備兵たちは何の抵抗も見せなかった。止めようともしない。あまりのばかばかしさに笑うしかない。こいつらももうすぐ消滅すると思うと、嬉しさがこみ上げてきた。


 MSCD すなわち最少安全距離(ミニマム・セイフ・ケア・ディスタンス)まで離れた瞬間、核ミサイル衛星のスイッチを押した。


 一望の平地の上に広がる真青な午後の空は、一瞬おなじみの閃光に呑みこまれ、それからキノコ雲がたちのぼった。口笛を吹きながら、規制ラインのインド側に駐めておいた車に歩いてゆく。そこには歓迎委員会が待っていた。ついにカーリー問題を「解決」してくれた男と握手を交わそうというのだ。


 勝ちほこった笑みが浮かぶにまかせて、挨拶の手を差しだそうとしたその時、変化が捕えてきた。


 「デヴィッド君」


 総首相が声をかけた。首相の笑顔が揺らぐ。安全対策要員として最も優秀な者がよろめき、額に手を伸ばしたのだ。


 「気分が悪いのかね」


 デヴィッドはくるりとふり向いてたちのぼる雲を見つめた。その下の230平方キロの土地には、つい数秒前まで70万の反逆した女たちが住んでいたのだ。握り拳を上げて振ってみせた。ひきつった笑いのように口が開いたが、絶叫は出てこなかった。


 「このやろう」


 それだけ絞りだすのがやっとだった。そこで転換が完了した。


 総首相にふたたび向きなおった時、怒りと憎しみの色はきれいに消え、おちつきはらった穏やかな顔になっていた。統一インドの最高指導者は仰天した。いきなり叩きのめされたとしても、これほど驚きはしなかっただろう。


 さきほどまでデヴィッド大使と呼ばれていた男が言った。


 「私がドゥルガー・マアです」



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