最も古い物語の新鮮さ

 新世紀版『ラーマーヤナ』は新鮮だ。「定型」からはずれているからだ。しかも「原型」になっている。


 『ハリポタ』以来のファンタジィ・ブームで紹介されているのはどれも、ケルト系、キリスト教系の世界観をベースにした作品だ。ウィリアム・モリスに始まり、トールキンで一応の完成を見た世界観である。もちろんファンタジィ全体を見わたせば、その傾向は一部でしかない。いま現在、一時的に流行しているにすぎない。そして、その流行ぶりに、そろそろ飽きが来ていることも否めない。「異世界」を生出すはずの設定や道具立てが、ごくあたりまえの、おなじみのものになってしまっている。クリシェになっている。


 新世紀版『ラーマーヤナ』はファンタジィだが、当然のことながら、ケルトともキリスト教とも無縁だ。この世界の成りたち、人びとの感性や思考、「魔法」の原理、すべてがまったく異なる。そこがまず新鮮だ。これはわれわれにとって、まごうかたなき「異世界」だ。今までまったく知らなかった世界だ。


 一方でこの世界を動かしている原理や感情は、案外なじみがあり、共感できるものでもある。物語のベースになっているインドの思考、感性は、われわれにはなじみ深い。なぜなら、それらは中国経由の仏教の形で、すでに千年以上、この国に根付き、われわれの思考、感性の一部になっているからだ。仏教の仏や神様、仏教を作り、支えている思想は何といってもインドで生まれている。


 今日おこなわれている多数の物語は、いくつかの原型の物語からできてる。神話が「変形」されて受渡され、循環してゆくのと同じだ。『指輪』や『ハリポタ』、あるいは『スターウォーズ』や『デューン』の装飾物をすべて剥取って裸のプロットまでむき出しにしてみるとおもしろいだろう。


 『ラーマーヤナ』はこうした物語の原型をなしている。2000年ほど前に、それ以前の無数の物語がここに結晶化されて一つの理想形を作り、ここからまた無数の物語が派生し、変形されて生まれている。そして『ラーマーヤナ』自身も、時代や環境に合わせて変身し、転生している。新世紀版『ラーマーヤナ』はその転生の一番新しいものである。


 ただし、この転生がこれまでの転生とはまったく違っているのは、これが英語、事実上の「世界共通語=リンガ・フランカ」で書かれたことだ。そして、その際に、物語自体の出発点、ヴァールミーキの版から出発していることだ。ヴァールミーキはそれまで語られ、おこなわれてきた「ラーマ物語」を集大成し、当時の「リンガ・フランカ」であったサンスクリット語によって『ラーマーヤナ』として完成した。アショーカ・K・バンカーは21世紀初頭にあって、それまで語られ、おこなわれてきた『ラーマーヤナ』を集大成し、現代の「リンガ・フランカ」たる英語によって新たな基本形を完成した。


 新鮮で、それでいてなじみ深い世界観、思想に基づく、最古の、同時に最新の物語。新世紀版『ラーマーヤナ』の魅力はそこから生まれている。


 そこにマンガやアニメの形で、われらが国の思考や感性が合流しているとすれば、インドから流れでた物語の大きな河が、大いなる時空を経て、もとへもどることになる。循環の、螺旋の一つの環が閉じる。