小説に説明はいらない。

 『樹海の妖魔(仮)』初校ゲラで
編集校閲から出たいくつかの疑問点を著者に質問したら、
熟考の上、
これらはそのままにしてくれとの返事。


 たとえば、第一部「平和」の前半で、
ミティラーでの婚礼を終えたラーマたちの一行が
アヨーディヤーに入って市民の熱狂的歓迎を受けるシーン。
アヨーディヤーに入る前は
大王ダシャラタやカウサリヤーが乗った象が
行列の先頭に立っていたが、
スーリヤヴァンシャ宮殿に入るときには、
いつのまにかラーマとシーターが乗った象が先頭になっている。


 あるいはその前、
斧を持った婆羅門パラシュラーマとの対決の際、
ラーマはヴィシュヌの弓を持つ。
『聖都決戦』のシーターの婿選び(=スワヤンヴァラ)のシーンで、
ラーマがヴィシュヌの弓を軽々と持ちあげたのは、
梵仙ヴィシュワーミトラから
梵天力を自由に操れる超能力を授けられていたからだった。
とすると、『聖都決戦』のラストで
その超能力を失ってしまったはずのラーマが、
ここでヴィシュヌの弓を持てるはずはないのではないか。


 もちろん各々に理由はある。


 しかし、その理由を説明する文章をどこかに入れれば、
「語り」の流れが乱される。
なによりも伝えたい場の雰囲気、
空気感が失われる。
あるいは手に汗握る緊迫感が、
あるいは底抜けの祭の気分が、
崩れてしまう。


 小説とは、
物語とは、
すべての事情を説明するものではない。


 キャラクターたちの言動が
すべて明らかにされることはありえないし、
すべてが筋道の通ったものになるはずもない。


 書かれていない部分は、
読者が埋めあわせればいいのである。
そこに何が書かれているか、
何を伝えようとしているか、
理解していれば、
おのずと推測はできる。

 これはどこかで行列の順番を入換たのだろう。
ヴィシュヌの弓は、
射ることによって回路が開かれ、
以後、その者の言うことを聞くようになるのではないか。


 そういう事情は容易に考えられる。
それを推測するのも読書の、
物語に浸る楽しみのひとつである。


 すべての事情がきちんと説明され、
矛盾も飛躍もなくつながり、
すべての糸は最後には結ばれる。
そういう物語、
そういう小説は、
どこかに無理がある。
それをわれわれは「予定調和」と呼ぶ。


 良き物語、面白い小説は、
むしろおおいなる矛盾を含み、
いたるところに飛躍がある。
ラーマーヤナ』はもっと大きな、
史上最大とも言える矛盾を抱えている。
この物語が
少なくとも二千年にわたって伝えられ、
ますますたくましく生きているのは、
そのおかげかもしれない。