正義の傷

 今にも雨が降りそうで寒い日曜日。
こういう日こそ外に出るとおもしろい。
こういう日でも出ている人びとは、
相応の理由を背負っているからです。
その人びとを見ていると、
そこはかとなく親近感がわいてきます。
あなたも仲間だと
抱きしめたくなります。
何かを贈りたくなります。


 そうして見まわせば、お歳暮の季節。
クリスマス商戦も酣(たけなわ)。
今や、歳暮もクリスマス・プレゼントも
一緒くたになっているよう。
シーズン・ギフト
なのでしょう。


 口実はなんにしても、
贈り物をするのは
良い気分です。
贈り物ができるのは
幸運の徴ですから。
今年も、
ささやかではあるけれど、
贈り物をすることができる
歓びをかみしめたい。


 ところで、贈り物として本が選ばれることは、
わが国では少ないように思います。
本を買うための、
かつての図書券
今の図書カードは
贈り物の定番ですが、
本そのものとなると、どうでしょうか。
もっとも、自分の経験からしても、
人からもらう本は、
読まないことのほうが多いです。


 その一方で、自分が惚れこんだ本は
ことあるごとに贈りたくなります。
ラーマーヤナ』も、ずいぶん配りました。
今年の歳暮にも贈ろうかとも思ったりしましたが、
考えてみると、歳暮を贈るほどの人には、
とっくに贈ってしまっていました。


 とはいえ、『ラーマーヤナ』をシーズン・ギフトとして
贈るのはいかがでしょうか。
読んで楽しく、ためになります。
なにせ、ラーマは物語の前半では16歳。
もちろん、並みの16歳ではありません。
が、どんな人も、16歳の時には、
皆特別の存在でしょう。


 16歳であるラーマの物語を読めば、
いじめなどふっ飛びます。
命を奪うことがどういうことか。
人にかぎらず、
この世にある命を奪うとはどういうことなのか。
ラーマほど深くそのことを体験し、
考える人間はいません。
たぶん。


 人類の歴史上、最大の大量殺人者
といわれる人びと、
成吉思汗や、
ナポレオンや、
ヒトラー
といった人びとにしても、
ラーマとは比べものになりません。
そうした人びとは殺すことを命じはしました。
が、自ら実際に手を下してはいません。
そこが、ラーマとは決定的に違います。


 殺したのが敵であること。
殺した理由が、
自分の愛する人びとを守るためであること。
その事実も、
自らの手をくだして
一瞬にして数百万の命を奪ったことのショックを
やわらげることはできません。
ラーマの傷は深い。
癒しようもないほど、深いのです。


 『ラーマーヤナ』を読む者は
ラーマとともに、深い傷の痛みを感じます。
ラーマが代わって傷を引受けてくれたことを
ひそかに感謝します。


 自分の身を守るために
他人を傷つけることは正義です。
場合によっては、
命を奪うことすら正義です。
正義とされています。
しかし、正義は、
正義をおこなうことで負う傷の
面倒はみてくれません。
傷を癒してはくれません。


 では、どうすれば傷は癒せるのか。
せめて、痛みをやわらげることはできないのか。


 『ラーマーヤナ』は
その問いに答えようと
務めた物語。
ぼくにはそう見えるのです。