「まれびと」

人のこころが共同体の「外」からやってくる、
どこか異質な体験に触れたとき、
はじめて文学や芸能や宗教が発生してくる。

 「古代から来た未来人」
『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 2006年10月11月』
日本放送出版協会、108pp.


 折口信夫はそう考えた、
中沢新一は言う。


 なるほど、ラーマは「まれびと」だったのだ。


 思えば、ラーマを含めたヴィシュヌのアヴァター=化身は、
当然外からやってくる。


 ラーヴァナもまた「まれびと」だ。


 どちらも共同体に衝撃を与える。


 ひょっとすると『ラーマーヤナ』が生まれる前に、
『ラーヴァナヤナ』が語られていたのかもしれない。
古事記』が作られる前に、
風土記』にまとめられ、
あるいは追いやられた物語が語られていたように。
そこではスサノヲが英雄であり、
常世」からやってきた「まれびと」として、
行き詰まった列島に新たな文化を生みだしていただろう。


 『ラーヴァナヤナ』は実際にインドの各地に伝わっているらしい。
各地の『ラーマーヤナ』の中でも、
シーターがラーヴァナの娘という設定のものもあるという。


 『ラーマーヤナ』を後から来たアーリヤと
その前からいた先住民の衝突の記録
とするとらえ方は否定されている。
しかし、ラーマを英雄とする文化と、
ラーヴァナを英雄とする文化の衝突の記録
と捕えることはできよう。
ラーヴァナは単なる悪役、敵役、滅ぼされて当然、
いっさいの同情をかける必要はない存在ではない。
少なくとも、アショーカはラーヴァナをそんな存在としては描いていない。
むしろ、ラーマとラーヴァナは対等の存在だ。
これは11世紀に生きたと言われるカンバンによるタミール語版の流れを汲んで、
アショーカが展開したものではある。


 ラーマの到来が『ラーマーヤナ』を生んだ。
岩本裕の論を借りれば、
直接『ラーマーヤナ』を生んだというよりは、
その原形たる「ラーマ物語」と呼ぶべきものを生んだ。
そして「ラーマ物語」の到来によって、
各地で各々の『ラーマーヤナ』が生まれ、語られた。
今も語られている。
これからも語られてゆくだろう。


 つまりは、
ラーマは一度だけ来るのではない、
ということだ。
ラーマは何度も来る。
くり返し来る。
「まれびと」は何度も来る。


 「まれびと」がいつ来るか。
誰にもわかるまい。
だが、おそらくは、共同体が必要とするときに来る。
外からの、異質のものが必要とされるときに来る。
ラーヴァナは地上界=プリスヴィーだけでは処理できなかった。
だから、ヴィシュヌがラーマに転生して降臨した。
外からの、異質の存在としてやってきた。


 『ラーマーヤナ』がアショーカ版として、
あらたな形をとって地上に現れたのも、
おそらくは今の地上界が、必要としたからだ。
地上の人間たちが、自分でも意識せずに、
その降臨を願い、祈ったからである。