ランカーまでは何由旬?

 インドは遠い。
ラーマーヤナ』にのめり込むほどに、
インドの遠さが身にしみる。


 『天竺までは何マイル?』とは
中野美代子氏の秀逸なエッセイ集の秀逸なタイトルだ。
ラーマーヤナ』を訳しながら、何度そうたずねたくなったか。
インドにはいつになったらたどりつけるのだろう。


 小野忍の後を受けて、明刊本『西遊記』完訳をされた
中野氏が到達された天竺は、インドではない。
少なくとも『ラーマーヤナ』のインドではない。
天竺は仏教の源、唐にとっての先進の地だ。
ラーマーヤナ』のインドでは仏教はまだ生まれていない。
ヒンドゥーもまだ生まれていない。
が、仏教とヒンドゥーと、双方が生まれることになる原質は確かにある。


 『ラーマーヤナ』の物語を支える概念がそれだ。
ダルマとカルマとアルタ。


 アルタはまだわかりやすい。
現実的な利と考えて、一応的からははずれまい。
その中身の検討はまた別としてだ。
問題はダルマとカルマとその違いである。
「義務」や「宿命」のような語をあてても、
むしろ焦点からは大きくずれそうだ。


 ラーマのふるまいは明確だ。
しかし、なぜそうふるまうのか。
そのふるまいを決めているという
ダルマとカルマとはいったい何なのか。
明確にはわからない。


 おまけにインドの人びとにとっても、
ダルマやカルマを的確に把握することはむずかしいらしい。
だから『ラーマーヤナ』は長きにわたって、言動のお手本になっている。
ラーマのようにふるまえば、ダルマにしたがうことになる。
どうふるまったらよいかわからなければ、ラーマを見よ。


 となると、インドから遙かに離れた異邦人としては、
とにかくラーマのふるまいを
できるかぎり的確に伝えるしかない。
理屈は後からついてくると祈りながら。


 インドは遠く、われらが目的地ランカーはまだ遙か先だ。
「ふしぎに命ながらえて」
なんとかたどりつきたいと思う。