インドからいでて

 インドでは物語はただの娯楽、時間潰し、息抜きではない。
物語を語ること、聞くことは、神聖な行為になる。
とくにそれが聖なる物語、
ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』はその筆頭なわけだが、
そうした特別な物語を語り、聞けば、
「それだけで」汚れを祓い、呪詛を消し、
幸福と繁栄をもたらす。
隠されていたものが現れる。
『蒼の皇子』にも出てくるが、
物語を語ること、巧みに語ることは、
宗教者にとって不可欠のわざだ。


 ついでにいえば、読経は物語を読むことが定式化、儀式化されたものではある。


 この場合、物語がおもしろければおもしろいほど、
聖性は高まり、
効験も大きくなる。


 物語とは本来、
世界の矛盾を解決するために、
少なくとも一時的に折合いをつけ、次の位相に移るために
考えだされたものである。


 『ラーマーヤナ』も『マハーバーラタ』も、
現在なお口承で伝えられている、
つまり、インドの人びとの生活の中に生きている。
ヴァールミーキやカンバンによってテキスト化されても、
トゥルシー=ダースの『ラムチャリトマーナス』のような注釈本が
大量に生出されても、
テレビ、映画、コミックスでも繰返し「語られて」も、
それとつかずはなれず、口伝えで物語は伝えられている。
無数の『ラーマーヤナ』が今この瞬間にも、流れている。


 アショーカ版もその流れ、
まさに聖河ガンガーのごとく、
滔々と流れつづける物語の流れから生まれた成果の一つだ。
伝えられている物語をもとに私が創作したのではない、
物語が現代小説としての衣をまとって生まれかわるときに、
自分を語り部として採用したのだ、
とアショーカが繰返し言うのは、
真実だろう。


 アショーカが加えた部分も少なくはない。
たとえば物語の冒頭からラーヴァナを登場させたこと、
『蒼の皇子』でのタータカーとその「子ども」たちの姿、
ラーヴァナの従妹シュールパナカーの性格づけ
(『蒼の皇子』ではまだ目立たないが、話が進むにつれて、物語全体の鍵を握るキャラの1人になってゆく)
は、彼独自のアイデアだ。
が、それもまたまったくの無から生まれたのではなく、
ラーマーヤナ』の大きな流れの中にあった要素を
変換したり、増幅したりした形だ。
ラーマーヤナ』自身が時代や環境に合わせて自ら変化している。


 となるとやはりこの本は、普通に現代の読者のための小説として読まれてほしい。
『指輪』や『ゲド』や『百年の孤独』や『ダーク・タワー』とならべて読まれてほしい。
インドの要素はむしろ副次的なものであって、
こんなおもしろい本を書いたやつはどこのやつだ、
ナニ、インドか、
ほう、こういうおもしろい話が出てくるインドってのはおもしろいなあ、
となってくれるのが、理想ではある。


 普通に小説が好き、ファンタジィが好き、物語が好き、
という人には読んでさえくれればおおいに楽しんでもらえる自信はある。
半端ではないおもしろさだ、と思ってもらえる自信もある。
無数の語り手に語られ、鍛えられてきた
無類におもしろい物語を、
希代のストーリーテラーが語っているのだから。


 インドの話だからというだけで読もうという態度を排除するわけではない。
そうではなく、
ここには、『ラーマーヤナ』には、
その21世紀版には、
インド固有の魅力を越えた、
もっと普遍的な、
全人類に共通する、
全人類が共有できる
おもしろさがある、
と強調したい。


 さもなければ、
インドに格別関心のなかったぼくなどが一読のぼせあがり、
無知を承知で翻訳するなんてことは起きなかったはずなのだ。