インドに映る日本

 先日、家人が以前勤めていた公立高校の同窓会に呼ばれた。
その学校で最後に教えた卒業生が成人を迎えた。
東工大に行った者が、授業が英語で、教材も英語、講師も外国人と嘆いていた。
教養課程ではない。
専門課程である。


 それに対して言ってやった。
いまどき理科系を志向するのに、英語ぐらいできなくてどうする。
科学やテクノロジーの変化は速い。
いちいち翻訳など待っていられないはずだ。
欧米だけではない。
アジアの若者たちも、英語でどんどん学んでいる。
その点、英語圏たるインド、シンガポール、マレーシア、フィリピンは有利。


 ただ、先日、専門家から聞いた様子では、
フィリピンはどうやら4世紀にわたるスペイン支配の後遺症に苦しんでいる。
せっかくの英語力を活かしきれていない。
先端技術を身につけた者を迎えいれる体制が国内にない。


 中国の若者たちもどんどん英語を学んではいる。
しかし、やはりインドにはおよばない。
インドではすでに英語ネイティヴの階層ができている。
90年代からの経済開放の恩恵を受け、ITなどのソフトウエア産業で成功している階層だ。
新しい中産階級である。

一億人を突破したといわれる経済成長の恩恵を受ける新中間層の親たちは、
ほぼ例外なく小学校から子どもに英語で教育を受けさせ、
できれば借金をしてでも欧米の教育機関へ留学させたいと願っている。
ニューデリー中心部の繁華街で中間層が交わす会話は、
家族内であってもすべて英語だ。

毎日新聞2007年1月10日付「記者の目:日本はインド観を改めよ」西尾英之記者(ニューデリー支局)


 同じことは少し前に、上海や北京、広東の「新中間層」の親たちについても言われていたと記憶する。


 アショーカの英語版の『ラーマーヤナ』をベストセラーにしているのは、この新中産階級だろう。
アショーカは英語を母語として育っている。
母親はヨーロッパの複数の地域の血を引いてタミル語圏に育ったクリスチャン。
父親はアメリカで成功して帰ってきたグジャラート出身のビジネスマン。
家庭では英語で話さなければ会話が成立しない。
アショーカは現在インドで爆発的に増えている新中間層の先駆けだった。


 英語を母語とするインドの若者たちにとって、
ラーマーヤナ』は縁遠いものだった。
筋は知っている。
キャラクターもなじみ深い。
主なシーンもわかる。
しかし、それは保守的文化の象徴だった。
ともすればヒンドゥー原理主義とも結びつけられる。
昔からそうだったし、今でもそうである。
ぼくが言うのではない。
アショーカやかれの読者がそう言うのだ。


 その古い、カビの生えたイメージを
アショーカの『ラーマーヤナ』は完全にひっくり返した。
そして英語を母語とする新中間層が、
アショーカ版を通じて『ラーマーヤナ』を「再発見」している。


 一度発見すれば、『ラーマーヤナ』は無限の魅力を発する。
磨き抜かれた極上のエンタテインメントとしても楽しめる。
根源的な思想を展開し、検討し、消化する、深遠な哲学書でもある。
人により、時と場所により、いかようにも読める。


 アショーカはあくまでも英語を読めるインド人のために書いた。
しかし、それが英語で書かれていたために、
インド以外の地域の、英語を読める人間も読むところとなった。
インドを中心として輪となって広がっている波の、もっとも外縁に、
我が日本列島も含まれている。


 先の新聞記事は、安価な単純労働力の供給源を、
中国に代わってインドに求めることを戒めている。
インド経済の視野に日本は当事者として映っていない。
象徴は飛行機の便数だ。
インド国内からロンドンへの直行便は、毎日十便以上。
日本への直行便は、毎週十数便。
日本にとってインドは遠い国である。
インドにとっても、日本は遠い国らしい。


 しかしアショーカは日本文化が好きだ。
日本の小説、マンガ、アニメが好きである。
村上春樹
子連れ狼』。
宮本武蔵』と『バガボンド』。
スタジオ・ジブリ作品。


 アショーカは突出した例かもしれない。
が、孤立した例ではどうやらない。
インドは日本を欧米経由で見ている。
欧米の日本のイメージを見ている。
欧米の日本文化への関心を、そのまま受けついでいる。
ここでもアショーカが先駆けだとすれば、
インドの新中産階級の欧米文化への志向には
日本文化への関心も含まれる。