「『知的所有権』は ばかげた言い換え」コリィ・ドクトロウ

 コリィ・ドクトロウの第2長篇 EASTERN STANDARD TRIBE (2004) のドイツ語訳が UPLOAD のタイトルで Hyne から出版されたのだが、版元はこれをクリエイティヴ・コモンズのライセンスで刊行し、紙の出版と同時にオンラインで全文を公開した。版元は世界最大の出版社グループのひとつベルテルスマン英語圏ではランダムハウス)の一部。わが国でいえば、角川グループのメディアワークスというところか。これだけでも驚くべきことなのだが、おまけに、これは著者の側の要請によるものではなく、出版社側から言い出したのだそうだ。実験のひとつにしても、こういうことができる出版社は繁盛するはずだ。


 ここに訳出したのはそのコリィ・ドクトロウが英国の新聞 The Guardian に定期的に書いているコラムの一つ。"Intellectual Property"「知的所有権」「知的財産」という言い方のいかがわしさをずばりと指摘している。


 原文はこちら


 この翻訳もクリエイティヴ・コモンズでの公開。




知的所有権」は ばかげた言い換えコリィ・ドクトロウ
The Guardian, 2008.02.21


"Intellectual property" is a silly euphemism
by Cory Doctrow



イデアというものは一度外へ出れば、もとへもどす術はない……。


 「知的所有権」という用語は、口にされただけで論争が起きかねない、危険
イデオロギーをはらんでいる。このことばは1960年代まで広く使われては
いなかった。この頃になって、このことばは世界知的所有権機関WIPO)に
採用された。後に国連機関という赫々たる地位を得ることになる貿易関係団体
だ。


 WIPO がこの用語を使ったことはわかりやすい。世間一般の理解力にあっ
ては、ある人びとが「財産を盗まれた」と言うほうが、「統制のとれた独占を
していた企業体の構造が破られた」と言うよりもはるかに大きな同情を集めら
れるからだ。「知的所有権」が専門用語として主流となるまでは、権利侵害に
ついては後者の文脈で語られることがふつうだった。


 「知的所有権」という呼び名がそんなに問題だろうか。つまるところ、所有
権ないし財産というのは、法律の上でも慣習の上でも役に立つ、広く理解され
たものだし、シロウトでもあまり頭を絞らなくても呑みこめるようなものでは
なか。


 まったくその通り。だからこそ「知的所有権」という言い方は、根本的にひ
じょうに危険な言い換えであって、知識についてのさまざまに誤った理屈づけ
がそこから生まれてくる。知識についてさまざまに思い違いをすることは条件
にめぐまれている時でも面倒なことになるものだが、ある国が「知識経済」に
移行しようと努めている場合にはどこであっても致命的な結果を生む。


 基本的に「知的財産」と呼ばれるものはつまり知識だ。アイデア、ことば、
メロディ、青写真、識別子、秘密、データベース、なんでもいい。このしろも
のはある意味で財産に似ている。価値をつけることができ、その価値を利用で
きるようにするためには、時として多額の資金と大量の労働力を投資する必要
がある。



制御不能

 しかし一方で、「知的財産」は同じくらい重要ないくつかの点で、財産とは
異なっている。まず何よりも、「知的財産」は本来「排他的」ではない。あな
たが私のマンションに侵入すれば、私はあなたを外にほうり出せる(あなたを
私の家から排除できる)。私の車を盗めば、私はそれをとりかえせる(私の車
からあなたを排除できる)。しかしあなたが私の歌を知ってしまえば、私の本
を読んでしまえば、私の映画を見てしまえば、それは私のコントロールをはず
れる。あなたがたった今読んでいるこの文章を「知らなかったこと」にするた
めには、電気ショック療法でもほどこさなければならない。


 知的財産の「財産」の部分がひどく厄介なことになっているのは、実にこの
断絶のおかげなのだ。私の家に来る人間が誰もかれも家から少しずつ何かを持
ち去っていくならば、私は気が狂ってしまう。敷居をまたぐのは誰か、四六時
中気になり、トイレを使おうとするやつにはぶあつい家宅侵入念書に署名させ
ることになる。知識を所有権の観点から扱おうとする時、人はまさにこれと同
じことをしているのだ。DVD を買って、あのぎこちなく「車を盗むんじゃな
いぞ」と警告する、人をばかにした短かい映画を無理矢理見させられた経験の
ある方ならおわかりだろう。


 一方で世の中には財産ではないが、価値のあるものはたくさんある。たとえ
ば私の娘は2008年2月3日に生まれた。娘は私の財産ではない。しかし、娘
は私にとってはとても大切だ。あなたか誰かがこの娘を私から奪ったならば、
その犯罪は「窃盗」ではない。あなたが娘を傷つけたならば、それは 「動産
の損傷」にはならない。人間の生命に具体的な形としてあらわれている価値を
扱うための一群の語彙と、法律上の概念をひと揃い、われわれは用意している。


 それだけではない。娘は私の財産ではないけれど、それでも私は自分の娘に
対して利害関係を持つことが法律的に認められている。娘は「私のもの」であ
ると言う時、それには意味がある。そしてまた娘をその視野に置いている存在
は数多い。そこには英国とカナダの両政府、英国国家医療制度、チャイルド・
プロテクション・サーヴィス、娘の親族全体までも含まれる。それらは皆、私
の娘の処遇と将来について何らかの利害関係を主張することができる。



柔軟性とニュアンス

 知識を「財産」の比喩にむりやり押しこもうとすると、真の知識の権利体系
ならば備えているはずの柔軟性とニュアンスがぬけ落ちることになる。たとえ
ば事実には著作権はない。したがって、あなたの住所や国民保健番号やキャッ
シュ・カードの暗証番号を「所有している」とは誰も言えない。にもかかわら
ず、あなたはこうしたものに深い利害関係を持ち、その関係は法律によって守
られねばならない。


 「知的財産」というヒュドラを構成している著作権、商標権、特許権をはじ
めとする様々な権利の範疇からはこぼれ落ちる創作物や事実はたくさんある。
料理のレシピ、電話帳、音楽のマッシュアップのような「非合法芸術」。こう
した作品は財産ではないし、財産として扱われるべきでもない。そのどれにも
合法的な利害関係をもつ人びとが作る生態系が伴っているからだ。


 ヨーロッパ民間放送連盟に対して WIPO の代表が、第二次大戦のディエッ
プ攻撃60周年を記念する式典の記録を作るのに投資したものを考えると、放
送局はテレビ・ドラマのような「創作物」と同様この式典を所有する権利を与
えられてしかるべきだと説明する場に、私は立ち合ったことがある。私はその
場で、その「所有者」というのがカメラを持った金持ちであるべきだというの
はなぜかとたずねた。なぜあの海岸で死んだ人びとの遺族ではないのか。海岸
を所有している人びとではなぜないのか。攻撃を命じた指揮官たちではなぜな
いのか。こと知識に関して「所有者であること」は意味をなさない。ディエッ
プ記念式典の映像記録に利害関係を持つ人間はたくさんいる。しかし、誰がそ
れを「所有」するのかと問うことはばかげている。


 著作権はねじれや例外や派生物を持ちながらも、数世紀にわたって、一つの
法体系として知識のユニークな特徴を扱おうと努めた。あたかも財産管理のた
めの規則集の一部であるふりをしていたわけではない。40年にわたる「財産
論争」は、所有権と窃盗と公正な処理それぞれの立場がたがいに譲らずに延々
と戦争を続けている。


 この知識戦争を終らせ、永続する平和を生みだそうというのなら、財産云々
は脇に置き、知識というものは、価値があり、貴重で、カネのかかった知識と
いうものは所有されないこと、所有できないことを認めるところから始めなけ
ればならない。国は思考のはかない領域にわれわれが相対的に持つ利害関係の
交通整理はしなければならない。しかし、その調整は知識に関するものであっ
て、財産システムを不器用にリメークしたものであってはならないのだ。




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