現代に生きる「神話」

 『ラーマーヤナ』は神話だ。『ギルガメッシュ』や『イリアス』が神話であるのと同じである。


 池澤夏樹の言うとおり、『ギルガメッシュ』や『イリアス』が出発点ではなく、一つの頂点、あるいは極点、一つのサイクルの完成形であるごとく、ヴァールミーキ版『ラーマーヤナ』もまたそれ以前に無数の人が長い時間をかけて造りあげてきたものの完成形だ。


 ヨーロッパにおいてホメーロスの神話が直接口承伝承に入ることはなかった。『イリアス』『オデュッセイア』の「語直し」はルネサンス以降の「文学」、書き言葉の伝統の中でおこなわれてきた。ゆえにホメーロスの物語は原形のわかる形で語りなおされず、「変換」が施されることになった、といってみよう。

 余談だが、このことはヨーロッパは古代ギリシアと断絶していることの一つの証ではある。


 インドにおいては文化伝統に断絶はおこらなかった。イスラーム王朝の統治によっても、基盤のヒンドゥー文化は継続したからだ。
 したがって『ラーマーヤナ』は(この点では『マハーバーラタ』も)書かれたテクストとは別に口承伝承として今に伝えられ、生き続けている。

 その形も、祖父母が膝にのせた孫に語る文字通りの口承だけでなく、年中行事の中の野外劇・人形劇などのパフォーマンス、壁画などの視覚媒体、また音楽にのせての朗読など、およそありとあらゆる媒体を使っておこなわれてきている。現在ではコミックやテレビ、アニメも使われるのは当然だ。

 この点は「神話」が元の形からまったく別ものに見えるまでに徹底的な変換を受けている他の地域のケースとは様相を異にする。


 われわれにとって「記紀神話」やそれに準じる神話・伝説は、一度断絶している。むしろ「源平」の闘争、南北朝騒乱、あるいは戦国、幕末などの「神話」のほうがインドにおける『ラーマーヤナ』のあり方に近いかもしれない。


 アショーカ版『ラーマーヤナ』はその生ける神話の21世紀に向けての語直しだ。しかも英語による小説の形をとっている。
 英語も、小説も、現代において普遍度の高いメディアだ。
 その言語と形式を採用することで、アショーカは『ラーマーヤナ』をインド亜大陸の文化的境界から開放した。空間的にも時間的にも、この神話を一つの枠から解き放ったのだ。

 それによって失われたものもあるにせよ、得たものの方がはるかに大きいことは間違いない。
 英語で書かれることで、世界中の人間がアクセスできるようになった。実はインドの中でもこのことはプラスに作用し、従来とは別の新しい読者層が現れている。

 この場合、ヴァールミーキ版の英訳とは成りたちがまったく違う。ヴァールミーキは、実際にそういう名の個人があのテクストをまとめたとして、彼の生きた時間と空間の中で、それにふさわしい形でまとめている。成立についての学者の説に従えば、西暦紀元前後のインド北部に生きていた人間たちと彼らが作っていた社会、文化に向けてまとめたのだ。当然、それは二千年後のわれわれがそのまま生の形で受けとめて、楽しめるものではない。ヴァールミーキにとっては当たり前のことが、われわれにとってはそうではないし、また逆も成立する。

 アショーカは20世紀後半に人となり、21世紀に向けて活動する人間として、ヴァールミーキ以降の様々な形の『ラーマーヤナ』を吸収消化し、この時代、この地球にふさわしいものとしてこれを語直した。英語で書かれた小説という形式はその時、ごく自然な選択として現れたものだ。


 ヨーロッパにおいては『オデュッセイア』が20世紀のために書きなおされたときにはジョイスの『ユリシーズ』にならざるをえなかった。ヨーロッパと古代ギリシアの断絶はかくも深い。


 『ラーマーヤナ』にあっては、アショーカ・K・バンカーという類稀な才能が現れて、これをほぼ直接そのままの形で小説化してみせた。またそれが可能だった。

 かくてアショーカ版『ラーマーヤナ』は、英語によるファンタジィの装いをまとい、その実、人間が生んだ最高の「神話」の一つとしての姿を、21世紀初頭にあってその時空にふさわしく現した。

 ヴァールミーキ版には、この物語を読む者は大きな功徳を受けると保証されている。岩本裕による訳(平凡社東洋文庫)によればこうだ。

 「ラーマの所行を読誦する人はあらゆる罪障から解放され、この生命の長い物語『ラーマーヤナ』(ラーマの行状記)を読誦する人は、子孫とともに、また春属ともども、天国に赴いて繁栄するであろう。
 この物語を読誦する婆羅門はヴェーダの読誦の雄となり、
 クシャトリヤ(王侯・武士階級の者)は大地の支配者となるであろう。
 商人は商売の利益を獲得し、シュードラ(奴碑・奴隷)さえ高い身分に達しよう」

 「神話」がこの世界における人間存在の生みだす矛盾を解決するために生出され、語られるとすれば、このヴァールミーキの断言は誇張でもなく、虚妄でもない。単純明快な事実なのだ。


 アショーカ版『ラーマーヤナ』が「神話」としての性格をまったく変わらずに伝えているとすれば、現代においてこれを読む者にも、同様の「功徳」がもたらされる。