美しい文章、練達の語り

 第三篇『樹海の妖魔(仮)』の手書き原稿を改訂しながらの打込みを始める。
締切は今月末。
そろそろスパートをかけないといけない。
本来はもっと前にかけるつもりだったが、
人生ままならぬものである。


 この篇から著者の筆、というかタイプライターというか、
文章が前の2冊から変わる。
それだけ読んでいる分には前2冊も
十分になめらかな、すいすいと引きこまれる文章なのだが、
この原書3冊目になると、急に文章のレベルが一段上がる感じだ。
今までの文章が粗雑で、ごつごつしたものに感じられるほど、
なめらかに流れると同時に、
なんと言うか、
美しくなる。
音読して耳に快く、
描写や叙述が的確で、
重層的イメージが喚起される。
散文詩とはいわないが、
時にはそれに相当近いパッセージがあらわれることも、
稀ではない。


 もちろん著者はそう意識しているわけではないらしい。
美しくしようとか、
なめらかにしようと努めているのではない。
ただ、そう感じることを伝えると、
そう、確かにここから書くのがひじょうに楽になった、
と言う反応だった。
前2冊はいわば意識して文章を書いていたのが、
ここからは文章が自然にあふれ出てくるようになった、
というのである。


 いいかえれば、作品の「声」を発見したのだろう。


 読者としては喜ぶべきことで、
確かに読んでいる間は陶然としている。
が、これをいざ日本語に置換えようとすると、
頭を抱えることになる。


 基本はあくまでもエンタテインメントだ。
もちろんわが国のように、
純文学だ娯楽小説だといまだに無理矢理分けている
一種の「文学カースト制」とは、
著者は無縁だ。
ましてこれは『ラーマーヤナ』、
古典中の古典、
「大文学」であるであると同時に、最高の「娯楽」でもある。
その二つは切っても切れない。
いや、『ラーマーヤナ』の中に、
いわゆる「文学性」と「娯楽性」は渾然一体となっている。
いやいや、ほんとうに偉大な文学作品はまた、滅法おもしろいのである。


 実際読んで実におもしろい。
この第三篇はヴァールミーキ版で言えば
第二編「アヨーディヤーの巻」に相当するところで、
マンタラーとカイケーイーの陰謀でラーマが追放されるところだ。
第一篇『蒼の皇子』、第二篇『聖都の戦い(仮)』が
いわば「外」でのドラマ、陽性の戦闘を中心としているのに比べれば、
ここは「内」でのドラマ、陰性の暗闘が主題となる。
ふつうならちょっとダレるか、
雰囲気が陰鬱になったりするところだが、
緊張感はまったくとぎれないし、
固唾を呑んでページを繰ることになる。
文章だけでなく、
物語を語る技、ストーリーテリングにも一段と磨きがかかっている。


 もう一つ、ここには別の困難があるのだが、それはまた別の機会にしよう。


 とにかく、話はむしろ前2冊以上におもしろくなるし、
その話がいっそうなめらかに流れてゆくわけだ。
だから日本語でも話はおもしろく、
かつなめらかに流れなければいけない。
緊張感をみなぎらせると同時に、
すいすいと読め、
なおかつ言葉やフレーズが美しくなければならない。


 正直言って、はたして自分の能力が届くのか、不安である。


 走りきれるか、
それも予定時間内で走りきれるかわからないままに
ラソン、いやむしろ駅伝だろうか、
とにかく走りだしたけしきだ。
前の走者は著者である。
著者からたすきをもらって、
次の走者である読者まで、
つながねばならない。
ペースを上げすぎて途中でもたなくなり、
大ブレーキになるわけにもいかないし、
これまで自分のペースと思ってきたもので走っては、
予定時間内に中継点に跳びこめない恐れが大きい。
コースの下見はしてあるが、
途中の天候、道路の状態はわからない。


 などと御託をならべても仕方がない。行くしかないのだ。