再開

 またまた、あいてしまった。
仕事にも一段落ついたので、
これからはできるだけ定期的に、最低でも一週間に一度は更新したい。
書きたいことはいくらでもある。


 この間、なにをやっていたかと言えば、
まずは第三篇『樹海の妖魔(仮)』の翻訳の仕上げ。
前回、「追いこみ」と書いたが、
その「追いこみ」、最後の直線がおそろしく長かったのである。
それを渡したと思ったら、
第二篇『聖都決戦』のゲラの最終チェック。
昨日、ゲラをもどして、ようやく約ひと月ぶりに息をつけた。


 この『ラーマーヤナ』の翻訳は、とにかくやっていて楽しく、
その点ではかつて経験がないくらい、やるのが楽しい。
楽な仕事というわけではない。
読み慣れ、やり慣れた欧米の作家の文章や作品にむかうつもりでいると、足下をすくわれる。
あるいはいきなり後頭部をドヤされる。
これまでの常識や経験が根柢から疑われたり、ひっくり返されたりすることも多い。


 といって、難しければ難しいほど闘志が湧く、というのとも違う。
理屈も何もなしに、
とにかく仕事をしたい、
ペンを握りたい、
キーボードを叩きたい
との欲求がふつふつと湧いてくる。
もう仕事をしないではいられない。
たぶん「中毒」というのが一番近いだろう。


 その楽しさ、欲求は少しも減ったわけではないが、
『樹海の妖魔(仮)』の翻訳は難しかった。
この原書第3巻はシリーズ全体の「キモ」の巻である。
「肝」である。
と、あらためて思う。
ラーマーヤナ』全体を支えるコンセプトないしアイデア
あるいはむしろ「哲学」と言ってみたいが、
その中心テーマ、モチーフが初めてはっきりと姿を現す。
それももちろん、キャラクターたち、ラーマたちの具体的な行動と言葉を通じてだ。


 その中心テーマ、少なくとも最も重要なテーマの一つが何かは、項を別にして書いてみよう。


 ともかく、このひと月あまり、『樹海の妖魔(仮)』の文章と格闘していた。
正直、他のことは一切考えられなかった。


 というと語弊があるだろう。
実際には毎日飯は食うし、家族との暮らしもあるし、その他諸々のこともしていた。
三日間だけ、完全にオフにしたこともある。
が、他のことをしていても、頭のどこかに『樹海の妖魔(仮)』がひっかかっているのだ。
気がつくと、あれこれ、内容について考えていたりする。
実際の文章の表現を考えると言うよりは、
一つのシーンの持つ意味とか、
いや、もっと細かくラーマやシーターの一つの動作、台詞の一つがはらむ意味を、
あれこれ考えている。


 実際読みこめば読みこむほど、
細かい描写、一見さりげないディテールが、
思いもかけない重要性を発揮しはじめる。
別に故意に隠されているわけではない。
ただ、あまりにさりげなく、ささいなことなので、
ストーリーに流されていると気がつかないだけだ。
このアショーカ版『ラーマーヤナ』を読む楽しみはそこにもある。
「細部にこそ、神は宿りたもう」
なのだ。
今回翻訳という作業を通じて初めて気がついたこともいくつもある。
実を言えば、上に書いた中心とも言えるテーマそのものも、
そうして気がついたことの一つだ。


 読者にはまさか翻訳しろとは言わない(^_-)。
しかし、どうか、最低二度は読んでみていただきたい。
最初は波瀾万丈のストーリーと、それを緩急自在に語る語り口に乗せられて、
あっという間に読んでしまうはずだ。
しばらくおいて、もう一度読んでみてほしい。
まあ、今度の『聖都決戦』を読んでいただいて、
それから第1巻にもどるのが、通常はベストだろう。
そして、『樹海の妖魔(仮)』が出たら、
これも読んだ上で、また頭から読んでみていただきたい。
まずたいていは、また頭から読みたくなるであろう。
そして二度目、三度目に読むときは、
できるかぎりゆっくりと、
一つひとつの文章、情景、事件等々をじっくりと味わいながら読んでいただきたい。
この頃はとにかく速く読むことが良いと思われているらしい。
むろん「速読」に値する小説もある。
速く読むことに価値がある小説もある。
しかし、中にはできるかぎり速度を落として読まれたいと望んでいる小説もある。
ゆっくりと読むことで初めて見えてくる価値を備えた小説もある。
この『ラーマーヤナ』はそういう作品の一つであるのだ。


 その第二篇『聖都決戦』は10月12日発売。


 そして第三篇『樹海の妖魔(仮)』は来年1月の発売だ。