「聖賢」と「見者」

 次は魔法のシステムについて書くと予告したのですが、
その前にもう一つ、基本的な質問をいただいていました。


 ヴァシシュタやヴィシュワーミトラは、
一つのパラグラフ(段落)の中でも
「聖賢」と「見者」の二つの呼び方をされることがあります。
これはどう違うのか。
実は訳者も同じ疑問を持って、著者に質問したのでした。


 「聖賢」の原語は "sage" で、
「見者」は "seer" です。
もう一つ「見者法術師」という呼び方もあって、
こちらは "seer/mage" です。


 "sage" は普通は「賢者」と訳されていて、
RPGなどではそちらのほうが通りがよいでしょう。


 ですが、著者によれば、この『ラーマーヤナ』では、
「セージ」は知識と経験が豊富というだけではなく、
聖なる存在という性格もあるそうなのです。


 「聖賢」にしても「見者」にしても、
普通の聖仙にはもちいられず、
大仙にもまず使われません。
梵仙だけがこう呼ばれます。


 梵仙は形は人間ですし、人間的に悩み、感じ、行動します。
ですが、事実上不老不死、梵天エネルギーを自由に操り、現実そのものにも干渉できます。
つまり実際には神(デーヴァ)と同等の存在です。
インドラやマルートをはじめとするデーヴァと違うのは、
ふだん地上界(プリスヴィー)にあって、普通の人間と日常的に接触していること。
ですから、梵仙たちはデーヴァと人間を結ぶ地位と役割を与えられています。


 そういう聖なる存在という意味をこめて、「聖賢」と訳してみました。
「賢者」とすると「見者」と同音になるので、混乱を避けるためでもありました。


 「見者」のほうは文字通り「見る人」。
ただし、この場合は普通の人間には見えないものが見える人です。
いくつかの可能性のある未来や、遠く離れた現象が見える。
というのがふつうですが、もう一つ、
隠されていることすらわからないものが見える存在でもあります。
あるいはこちらのほうが重要かもしれません。


 「見者法術師」の後半にあたる "mage" は普通は魔術師、魔法使いとされています。
ですが「見者魔術師」ではまず語呂が良くありません。
そしてそれ以上に、「魔術」という呼び方にある「いかがわしさ」が、
梵仙の操る力と技にはかけらもないのです。
ラーヴァナや阿修羅たちが操るのは確かに「魔」術です。
かれらは「魔」の存在ですから。
ですが梵仙はかれらとは対極の存在です。
なので「魔術」ではなく、「法術」。
いわば「正しい力の使い方」ということです。


この点については魔法のシステムとして、改めて書いてみます。