モチーフ

 今朝は雨が降って肌寒かったのが、陽が出てきたら少し暖かくなった。
と思ったら、今度は風が強くなっている。
家の前の桜がほとんど裸になっている。


 作業の方は現在第三篇『樹海の妖魔(仮)』の初校ゲラが出てくるのを待っている。
出てくるとまた大特急でチェックしなければならない。
問題は急ぐとついつい話に引きこまれ、
「読んで」しまって、チェックにならないことだ。
褌を締めなければ。


 待っている間に、第四篇『ハヌマンの軍勢(仮)』の翻訳を進めている。
他の仕事もあるので、少しずつではある。


実は版元が翻訳権をとっているのは原書最初の3冊だけで、
後半の3冊はまだ買っていない。
買った当時は3冊までしか出ておらず、
まだ全体で何冊になるか決まっていなかったいなかったためだ。
だから、前半の売行きによって途中打ちきりになる可能性もある。
確実に続きが読みたい方は、ぜひ、口コミで面白さを広めてください。


 出せるかどうかわからないのに訳しているのは、
早い話が、やりたくてしかたがないためだ。
なぜそうなのか、ちょっと言葉にしにくい。
いや、ちょっとではなく、まるで説明はつかない。
ただ、やらずにいられない。
一日『ラーマーヤナ』にさわらないでいると、いらいらしてくる。
となると、要は中毒か。


 第三篇『樹海の妖魔(仮)』からはっきりしてくるのが、
この話、と言うより今回のアショーカ版のモチーフとして
いちばん大事なものだ。


 暴力である。


 『ラーマーヤナ』にも、暴力はふんだんに出てくる。
例えば『指輪物語』や『ハリポタ』、
あるいは『アンパンマン』や『マトリックス』、
いや今を盛りの時代小説や架空戦記
つまりは現在のエンタテインメントでは、
暴力をふるうことは問題解決の方法としてごく当然のものだ。


 『ラーマーヤナ』の暴力はそういうものと比べてもハンパではない。
第二編『聖都決戦』のクライマックスでは史上最大の大量虐殺も起きる。
『樹海の妖魔(仮)』以降でもその点は変わらず、
いわば大虐殺に次ぐ大虐殺。
ラーマの味方も敵も、大量に殺される。
ラーマーヤナ』は一大戦争文学でもある。


 ところが、われらが『ラーマーヤナ』では
無制限と見えるほどふるわれる暴力に、
登場人物たちがおりにふれて疑問を呈する。
暴力はほんとうに必要なのか。
正義はほんとうに暴力を正当化できるのか。
あるいは
暴力によって保証された正義はほんとうに正義なのか。


 通奏低音として鳴りひびいているのは、
『樹海の妖魔(仮)』の中でシーターが表明する真実である。
暴力に頼る者は、かならず暴力のむくいを受ける。


 たった今、その『樹海の妖魔(仮)』上巻の初稿ゲラが届いた。
今日はここまで。