「パンディタ」と「プローヒタ」

 午後も遅くなると多少雲も出るが、
朝から昼過ぎまでは
一点の雲一つない快晴
が続いている。


 息子は登校拒否になるわ、
かみさんはぎっくり腰だわ、
娘は親をばかにして言うことは聞かないわ、
でなかなか作業に集中できない。


 こういう時はあせらず、あわてず、
できる時にできる分量だけとにかく進めるしかない。


 とはいうものの、
なんでもないことをお手玉してしまうのは、
やはり内心動揺しているのだろう。


 婆羅門の階層の一つに「儀式僧」とよばれるものがある。
要するに数多い儀式の際の手伝いや準備をし、
シュローカ、つまり聖句や祝詞や呪文に当たるものを
唱える際に声を合わせたり、
その他諸々、まあ、雑用係である。


 今回の『ラーマーヤナ』の中では
この儀式僧をさすのに
「パンディタ」と「プローヒタ」
の二つの呼び名がある。
特に使いわけられてもいないらしい。
 巻末の資料集(用語集)でも、
「プローヒタ」は「パンディタ」を見よ、
とあるだけだ。


 今さらながらだけれど、
同じものを指すのに二つの名前があるのは、
混乱のもとではないかという指摘が出てきた。


 これまでは著者が二つを使っている以上、
日本語でもルビをつけたりして二つを使うべし、
と考えていたのだが、
はたしてそれで良いものか、
改めて気になりだした。


 どちらを使うかは、
著者はその時の気分や、
文章のリズム、韻律次第なのだろう。
 とすると、日本語にした場合、
どこまでも忠実にする必要があるかどうか。
むしろ、日本語として自然な形にした方が、
より原文の意図に忠実になる。


 インド人はひとつのものに
いろいろな別の呼び名をつけるのが好きらしい。
コーサラの人びとは
多少とも重要性のあるところやものには、
二つ名前をつける、
という一節が『蒼の皇子』下巻にもある。
ラーマたちがヴィシュワーミトラと旅に出て、
最後にアヨーディヤーのあるサラユー渓谷に別れを告げるところだ。


 上村勝彦の『マハーバーラタ』原典訳でも、
序文によれば
数多く出てくる別称はあえて統一しているようだ。


 とはいえ、そうした別称は
無意味につけられているのではないことが多い。
一つひとつの名前の背景に、
各々に由来があり、物語がある。
そこが、インドの説話、神話、伝説の
「語り」の面白さを生んでもいる。


 となると、簡単に統一してしまって良いのか。
実際、上村訳『マハーバーラタ』が
物語として今一つ面白くないのは、
様々な別称を統一してしまったのも
一つの理由ではないかと思われる。


 「パンディタ」「プローヒタ」は、
どちらにしたところで、
物語全体の大勢に影響はなさそうにみえる。
が、はっきりそうと言いきれるか、
と問われると、とたんに自信がなくなってくる。


 悩みの種は尽きない。