文語コンプレックスから物語のネットワークへ

 文語に対するコンプレックスがある。


 原文がちょっと古風な言回しだと
たちまち気どって
文語をふりまわす。
が、実際には正確な文語が使えるわけもない。


 『樹海の妖魔(仮)』冒頭に登場する
斧を持った婆羅門パラシュラーマのセリフの文体をどうするか
悩んだことは以前に書いたが、
新婚初夜のラーマとシーターが
シャクンタラーの戯曲に出てくる
愛の唄をかけあいで暗唱するシーンでも
この唄の部分を、ついつい文語でやってみたのだ。


 シャクンタラーの話は
インド最大の劇作家カーリダーサの代表作として有名だ。
カーリダーサがどれくらい偉大かといえば
シェイクスピアが「英国のカーリダーサ」といわれるほどである。


英雄王ドゥシャンタと恋に落ちたシャクンタラーの悲恋を
シーターがラーマに語ってみせる。
こういう物語の中の物語は
アドランガ仙が語るアナンガ僧院の縁起譚として
『蒼の皇子』の中にも出てくる。
インドの「語り」では得意のパターンであり、
ラーマーヤナ』の魅力のひとつでもある。


 翻訳していて、一番楽しいのは
実はこう言うところだ。


 物語の中でキャラクターが別の物語を語る形は
アラビアン・ナイト』の基本構造だが
あれももとはインドから借りたものである。


 ここでのシーターの語りには
ラーマが絶妙の合いの手を入れて
いかに二人の息が合っているか
示す効果もある。


 その語りを始める前、
寝室についているベランダで
シーターがまず朗唱をはじめて
ラーマが応じる。


 シーターがシャクンタラーの物語の一節を持ちだしたのは
なによりも有名なラヴ・ストーリーというだけではない。
実はシャクンタラーは
梵仙ヴィシュワーミトラの娘なのだ。


 ヴィシュワーミトラも、ヴァシシュタも
ラーマーヤナ』に出てくる前に
たくさんのエピソードの主人公になっている。
ラーマーヤナ』はそれだけで完結しない。
むしろ、インドの神話・伝説・説話を織りなす
模様のひとつにすぎない。
背後には、膨大な物語があって、
おりおりにその巨大なネットワークの一部が
物語の中の物語として
顔を出す。


 問題のシーターとラーマの朗唱は
文語では固すぎるとの指摘が出て
全面的に書きなおすことにした。