アヒンサー

 曇って気温が上がりません。
これでまた紅葉が進むでしょうか。


 先ほど、『樹海の妖魔(仮)』下巻の初校ゲラを
宅急便で送りだしました。
明日、午前中には着くでしょう。


 ガンディーがインド独立運動の原理として
採用した「アヒンサー」は、
本来ヒンドゥー教の根本原理でもあります。
もっとも、
シク教でも仏教でも
この原理は根本にあるので、
ヒンドゥーのものと言うよりは
インド文明全体の根本原理
とも言えそうです。


 日本語では
「非暴力」
と訳されまるこの原理は、
ただ単純に暴力をふるわない、
ということではどうやら無いようです。
少なくとも『ラーマーヤナ』では
それだけではありません。


 なにより、
この原理、行動様式は、
「非暴力」という言葉からともすると連想されるような、
消極的な性格ではないようです。
現在のわれわれの世界にあっては、
行動することが積極的、
しないことは消極的とされます。
暴力をふるうことは行動を伴いますから、
暴力の行使は積極的な対処とされます。


 アヒンサーの原理を支える土台は逆らしいのです。
「暴力は無能な者の最後の砦」
という諺にもあるように、
暴力をふるうことはそれだけでマイナス、
いわば「敗北」を認めたことに等しい。


 『ラーマーヤナ』にあっては、
アヒンサーは受身で動かないことではありません。
自らすすんでアヒンサーを実践する。
問題解決の方法として
暴力を用いないことをつねに最優先とする。


 もちろん、かなり、というよりひじょうに難しいことであり、
ラーマとラクシュマナの対照的行動はそのことを強調します。
しかし、同時に『ラーマーヤナ』の主張もまたはっきりしています。
暴力を用いる者は、暴力によって報われる。


 という具合にぼくは読んでいるのですが、
しかし、アヒンサーについて明確に把握した、
という自信はとうていありません。
どこかもう一つ奥に
極意が隠れているように感じます。
暴力とは何か、
にかかわってくる極意。


 とまれ『樹海の妖魔(仮)』の第三部「妖魔襲来」の前半、
ラーマ、シーター、ラクシュマナの三人が
追放され、隠棲した身としてチトラクータの丘で過ごす日々は、
暴力に満ちた物語の中で、
アヒンサーを多少とも実践できた
穏やかな小春日和
短いゆえに一層貴重な
休息の時であります。