『ラーマーヤナ』と『ドラゴンボール』

 『ドラゴンボール』は孫悟空の物語だ。


 孫悟空ハヌマンの子孫である。
中野美代子氏の言葉を借りれば、

インドから、南海をめぐって
福建に渡ってきたハヌマーンが、
中国固有の民話の中のサルたちを刺激して、
ここにまったく新しいサルが
花果山の頂の石から誕生したのである。


 ハヌマンは体を大きくできる。
実物の山脈なみに巨大化できる。
孫悟空はむしろ体を小さくするのが得意だ。


 ハヌマンはラーマを助けて、
奥方シーターをとりもどす。


 孫悟空も烏鶏国と朱紫国で、妖怪を退治して、
国王夫妻が本来の姿をとりもどす助けをする。
この際、どちらの国でも、
皇后の貞操が問題になる可能性があるわけだが、
どちらの場合も皇后の貞操は周到に守られている。


 再び中野美代子氏によると、
この二つのエピソードは『西遊記』全体の中でも、
中心軸からほぼ等距離に前後に対称に配置されている。
最高度に重要な地位を与えられている。


 『ラーマーヤナ』においてもシーターの貞操が問題となる。
シーターは自らその純潔を証明しなければならない。
そしてシーターは自ら進んでそのための試練を受ける。


 『西遊記』の作者たちは、あるいは
ラーマーヤナ』自体も読んでいたのだろうか。
自らの意志に反して囚われの身
ないしそれと同等の境遇に陥った女性に、
問題の境遇からの解放後、
幽閉中の純潔の証明を求めるのは公正ではない、
と考えたのだろうか。


 『ラーマーヤナ』の完全な漢訳は見あたらないそうだが、
何らかの形で知っていた可能性は残る。
むしろ『西遊記』は
ラーマーヤナ』の中国語による語りなおしではないか。
ラーマーヤナ』を中国語の感性、論理で
語りなおそうとして、
生まれた。
アショーカ版が英語による語りなおしであるように。
21世紀のインド人英語ネイティヴの感性、論理で
語りなおそうとして、
生まれた。


 とすれば、21世紀の日本語の感性、論理で
語りなおすことも可能だろう。
ドラゴンボール』は、
少なくともその一つではある。


 小説としての語りなおしは何だろう。
これから書かれるのだろうか。