異質さの体験

 フランスで『ドラゴンボール』の翻訳をしている女性のインタヴュー記事


 ダジャレや言葉遊びの翻訳の苦労にも膝を打って共感するが、
一番深く頷いたのはここ。

 訳し方は翻訳者が決めるので、
道具や人物名、必殺技を「フランス語」に訳す人もいますが、
私は基本的には日本語の単語をアルファベット表記でそのまま使い、
必要な時に注釈を入れる形を取っています。
日本語をそのまま使った方が、
よりオリジナルに近い形になり、
その分、日本に触れる機会が増え、
読む人が日本を知るきっかけになる、
と考えているからです。


 アショーカの『ラーマーヤナ』に頻出する
サンスクリットヒンドゥーなどの
インド諸言語から借りた単語やフレーズの処理も、
同じ考えであるからだ。


 翻訳は、
何でもかんでも「わかりやすく」を最優先にすべきもの、
ではない。
相手の文化の「異質さ」を実感できるようにすることも、
重要な役割だ。
翻訳に触れることは一方で、
異質な思考、感覚、行動を持つ人びとのドラマが、
本質において自分たちのものと同質であることの確認であり、
同時にまた
喜怒哀楽を共有できる人びとの
思考、感覚、行動の異質さの体験でもある。


 「わかりやすく」を最優先するならば、
翻訳ではなく、翻案すなわちリメイクになる。
ゴジラ』のニューヨーク版だ。
黒岩涙香の『巌窟王』(『モンテ・クリスト伯』)だ。
涙香には確か、ウエルズの『宇宙戦争』の翻案もあった。
横浜に火星人の円盤が着陸する。
そこでは、オリジナルの『ゴジラ』にニューヨーカーが感じる異質さ、
フランスやイングランドの社会や風景にわれわれが感じる異質さ
は消えている。


 リメイクではなく翻訳をする価値は、
むしろ原作からわれわれが感じる異質さを伝えることにある。
超訳」が結局面白くないのはそのせいだ。


 異質さをどう伝えるか。
ことにエンタテインメントの翻訳において、どう伝えるか。
楽しめるように異質さを伝えるにはどうすればよいか。


 正解はない。
相手に応じて、試行錯誤するしかない。


 ちなみに『ラーマーヤナ』はあくまでもエンタテインメントだ。
ラーマーヤナ』だけではない。
古典はどれもエンタテインメントだ。
そうでなければ残れない。
古典とは例外なく一級のエンタテインメントだ。


 文学ばかりではない。
科学論文でも読んで「面白い」はずだ。
面白くなければ、真理でも真実でもない。