インドへの入口

 ぼくはアショーカの『ラーマーヤナ』を読むまで、
インドにはごく表面的な関心しかなかった。
ラーマーヤナ』の名前は知っていたが、
あらすじさえ知らなかった。
まったくの白紙で出会った。
インドについて、『ラーマーヤナ』についてあれこれ調べだしたのは、
原書の2冊目『聖都決戦』原版を読んだ後である。


 しかし、たぶんこれは良かったのだ。
はじめから全体像を掴もうとしていたら、
挫折していたにちがいない。
インドはでかすぎる。
いや、インドだけではない。
アイルランドは、インドに比べれば、
その一州にも届かない小さな国だ。
この小さな国とは四半世紀のつきあいがあるけれど、
その全体像を掴むのですら難しい。
長くつきあってきて、一応の心づもりはある。
が、それが正確という自信はまったく無い。
どんな国でも同じだろう。
この場合の「国」は、近代国家ではなく、
あるまとまりのある文化を持つ共同体というぐらいのものだ。
近代国家の中にはそうした「国」がいくつもあるのがふつうだ。


 インド、ここでは共和国にかぎらず、
広義のインド、あるいは亜大陸の文化と社会の全体像を、
まず出会ったはじめに自分なりに作るのは不可能だ。
群盲象を撫でるにもおよぶまい。
できることがあるとすれば、
ある一点をきっかけ=突破口にして、
そこから筋をたどってゆく形しかない。
アイルランドの場合にはそのきっかけが音楽だった。
インドの場合には『ラーマーヤナ』である。


 アイルランドの音楽と、
インドの『ラーマーヤナ』は、
案外共通点が多い。
どちらも各々の文化と社会を形作るのに、
大きな役割を果たしている。
いつともしれぬ過去から、
人から人へと伝えられてきている。
一人ひとりの人間に、
その人なりの音楽があり、
ラーマーヤナ』がある。
内部に留まらず、外へとあふれ出て、
着いた先で新たに花を開かせている。


 異なる点があるとすれば、
アイルランドの音楽がロックン・ロールの洗礼を受けて、
1970年代から現代化されてきているのに対し、
ラーマーヤナ』の現代化には
アショーカの登場を21世紀初頭まで待たなければならなかった。
もっとも、たかだか2、30年の違いなど、双方の伝統の前では一瞬に過ぎない。


 『ラーマーヤナ』はシンプルな見せかけの裏に、
ぎっしりと副次情報がつまっている。
ここにはインドのあらゆるものが流れこんでいる。
マハーバーラタ』について、
「ここにないものはない」
と言われているそうだが、
ラーマーヤナ』も負けてはいない、と思う。
ただ、元々の分量からしても、
ラーマーヤナ』のほうが圧縮度は高い。
それを一つひとつほぐし、たどってゆくのは、楽しい作業になる。