愛の本質

 『ラーマーヤナ』に含まれる物語は『西遊記』だけではない。
敵にさらわれた妻を救いだすために大戦争を起すのも「原物語」の一つだ。
この点では『イリアス』と共通する。
どちらがどちらに影響を与えたというよりも、
共通の「物語のもと」があり、
そこから各々に展開したようにみえる。


 「原物語」で二つの社会の戦いの原因が女にあるのは、
人間のすべての戦争の原因がそこにあるからではないか。
それも娘や妹や母ではなく、妻である。
血を分けた肉親ではなく、アカの他人だ。


 本質的には他人である妻を取りもどすためなら、
膨大な量の血を流すこともためらわない。
それは愛と讃えられる。
愛は、おのれを邪魔するものを、
本来無関係のものの血を流しても、排除しようとする。
そこには善悪はない。
ラーマもラーヴァナも同じである。
アキレスもヘクトールも同じだ。


 ここでの女は富のシンボルだなどとは言わせない。
われわれが心動かされるのは、
流血の原因が生身の女だからだ。
なぜなら、人は女のためなら命を捨てられても、
カネのためには捨てられないからだ。


 近代国家が自国民に血を流すことを求める時、
家族を守ることを口実にするのはそのためだ。
カネを守るためという真相は、口が裂けても言えない。


 物語は、隠されて見えにくくなっていることやものを、
明るみに引きだす働きをする。
その点に優れた物語は
くり返し語られ、伝えられ、生きつづける。
アショーカ版『ラーマーヤナ』が
9/11の前に書かれたものではあるにもかかわらず、
まるで9/11を受けて書かれたようにみえるのは、
「原物語」の力だ。