叙事詩?

 アショーカ版『ラーマーヤナ』邦訳を機に
わが国でもインドの叙事詩についての関心が広まらんことを、
と言われることがある。
まったく同感。


 とは思うものの、ひとつ引っかかりもする。
叙事詩」という呼び方だ。


 当初はぼくも
ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』は「インド二大叙事詩
との呼び方に疑問を持たなかった。
邦訳第一巻の帯にもうたわれている。
叙事詩」という呼び名が「取っつきにくい」と言われても、
そんなものかな、ぐらいにしか思わなかった。


 しかし、だ。
この二つについていくらか知るようになってくると、
少なくとも『ラーマーヤナ』を「叙事詩」と呼ぶことに疑問が生じてきた。


 もっとも、邦訳の宣伝に使われている「叙事詩」は
詩の形式ではないだろう。
そこでは「壮大な」という形容詞と結びついた、
「大作」「スペクタクル」の代名詞として使われている。


 ただ「インド二大叙事詩」という場合には、
後者よりは前者、つまり詩の形式のひとつの意味が強いと思う。


 少なくとも『ラーマーヤナ』にはこの呼び方はあてはまらない。
では何か。
ラーマの冒険という枠組みでくくられた物語群である。


 口伝えに伝えられていたその一群の物語を
中心軸を通し、整理して、文字に書きしるしたとき、
叙事詩という形が選ばれた。
あるいは、当時、西暦紀元元年前後のインド亜大陸にあって、
叙事詩がこうした物語群を語る最も有力な形式であった。
そういうことではないか。
ひょっとすると、
ラーマーヤナ』が書きしるされる過程で、
叙事詩という形式が成立していったのかもしれない。


 いずれにしても、叙事詩という形は
飽くまでも最初に文字に定着された際の形でしかない。


 重要なことに、文字に定着されることで、
物語そのものが口伝えで伝わる方が止んだわけではなかった。
ラーマーヤナ』はその後も
各地域、各時代で無数の人びとにより、口承されてきた。
今でもされている。
祖父が孫に語るような個人的な語りもあれば、
ラムリラの祭を通じての、共同体内での語りもある。
寺院や城塞の壁画による語り、
ワヤンやガムランによる語りもある。
現代ではテレビ、映画の形での、より広い範囲に共通の語りがある。
そのすべてが『ラーマーヤナ』である。
ヴァールミーキの、あるいはカンバン、トゥルシーダースによるものだけが
ラーマーヤナ』ではない。
アショーカ版もまた物語群の書きなおし、語りなおしの一つである。
最も新しい、最も現代的なものである。


 これと対照的に、
ホメロスのものは今でも叙事詩のままにある。
トロイア戦争オデュッセウスの放浪の話を、
古代から連綿と現在に至るまでギリシアの人びとが語りつたえてきたわけではない。
叙事詩の形でルネサンス以降、再発見され、基本的にそのままの形で鑑賞されてきた。


 例えば現代ギリシアの作家が、
イリアス』『オデュッセイア』の物語を、
残っている原典に忠実に、
しかし現代的想像力を駆使して英語で書きなおしたものはあるのだろうか。
翻訳ではない。
作家個人が一度吸収して血肉化し、
作家としての才能を注ぎこんで
もう一度紡ぎなおし、編みなおした、
創作であると同時に語りなおしでもある物語。
あるならば、ぜひとも読んでみたいものだ。


 アショーカがやったことは、それと同じことなのである。
ただ、インドでは文献だけでなく、口伝えでも伝えられてきているが、
ギリシアでは文献だけが残った。


 だから少なくとも『ラーマーヤナ』は叙事詩とは呼べない。
ラーマの冒険という枠物語の、あるいは中心軸は強力だ。
おそらく数あるインドの物語群の中で、最も強力なものだろう。


 『マハーバーラタ』では、
枠の中に詰めこまれた物語があまりにも多いので、
一族の内訌という枠物語がずいぶん後退している。
枠物語の形式をインドから借りた『アラビアン・ナイト』では、さらに弱い。
枠物語は、中に収められた個々の物語との有機的関係が無くなっている。


 『ラーマーヤナ』にあっては、副次的物語つまりサイド・ストーリーは、
枠ないし中心軸の物語の背景でしかない。
それでもこれは、枠ないし中心の物語を語りながら、
眼の前で起きている事象の起源とここで起きるまでの経緯を暗示している。
表面で語られている物語の数倍、数十倍の量の物語が、裏で語られている。


 物語とは、本来そういうものなのだろう。
見えているものだけでなく、
膨大な副次的物語が表面の物語を裏で支えているのだ。
表面の物語は意識で、裏の物語を無意識と言うこともできる。
そしてこの物語の無意識が大きければ大きいほど、表面の物語も面白くなる。
古典は他より大きな無意識領域を備えていたから、
生きのこってきたものでもある。
そして生きのびることで、ますます無意識を大きくしてきた。


 『ラーマーヤナ』にあっては、
枠ないし中心軸の物語とサイド・ストーリーが
有機的に不可分に絡みあっている。
それを巨大な物語の無意識が支えている。
イリアス』『オデュッセイア』もそうだ。
マハーバーラタ』はまた別の話になる。