将来への予言

 自作を完成して
ヴァールミーキがまず気がついたのは、
できあがったものが不完全だということだった。
語る相手が誰もいなくては、
物語の良さは何になろう。
かれの時代の伝統では、
詩人は己の作品を自ら朗詠するのがふつうだった。
あるいは何らかの見返りや
貨幣やモノによる支払を得ることもあったかもしれないが、
聞き手の称賛だけが見返りということのほうがずっと多かった。
しかしヴァールミーキは
物語の形は自分が創りだしたものにせよ、
物語そのものは同胞全員の共有であることをわきまえていた。
ラーマの物語はこの世に山々や河川のあるかぎり、
語りつがれるだろう
とのブラフマー神の励ましを思いおこした。


 そこで詩人は自作を弟子たちに伝えた。
その弟子の中に、
数年前、詩人のもとに庇護を求めてきたある女性の
二人の若い息子がいた。
この二人の少年ラヴァとクシャは
あちらこちらと放浪し、
師が作った形の『ラーマーヤナ』を朗詠した。
やがて運命に導かれて
二人は詩が歌っているラーマ本人の前に出た。
ラーマはすぐにこの詩が自分をうたったものであり、
二人の少年が追放されたシーターとの間にできた
自分の息子であることに気がついた。
好奇心に駆られた王に呼びだされ、
ヴァールミーキは自らラーマの前に伺候し、
シーターを再び迎えるよう嘆願した。


 後になってラーマは
ヴァールミーキに、追加の巻を作り、
ラーマ・チャンドラ自身の将来に起きることを
わかるようにすることを依頼した。


 ヴァールミーキはこの尋常ならざる指示に従い、
この補遺の巻は彼の詩の
「大団円の巻(ウッタラ・カーンダ)」となった。


 この物語のヴァールミーキによるサンスクリット語作品は、
古今を問わず、どのような基準に照らしても
みごとな成果である。
その魅力、美しさ、独創性はならぶものがない。
インド文学の真の傑作であり、
我らが偉大な文化遺産の源泉たる
「最初の芸術詩=アディー・カーヴィヤ」である。
作られてから数千年を経た今日ですら、これを超えるものはない。


 にもかかわらず、
こんにち我々が『ラーマーヤナ』の物語を語るとき、
朗唱されるのはヴァールミーキのサンスクリット語詩頌(シュローカ)ではない。
ヴァールミーキの不滅の作品を
作られた当時のままの形で読む者すらほとんどいない。
抄本すら読まない者がほとんどだ。
それどころか完全版の『ラーマーヤナ』、
変更や修正のないヴァールミーキの韻文を復元することすら、
ほとんど不可能である。
最も学識豊かな学者たち、
古代サンスクリット文学の研究に生涯没頭してきた人びとですら、
こんにち我々の手にあるヴァールミーキの詩の様々な版は
後世の人間たちによって修正や追加が行われていると主張している。
中には第一と第七の巻とともに、
他の各巻内の多数の章句も、
名を残さない方を好んだ後世の作家たちによって
挿入されたものと信じる者もいる。


 ヴァールミーキの詩の最も初期の語りなおしは、
あるいは『マハーバーラタ』と呼ばれる
物語の膨大な海の中に見られるものかもしれない。
こんにちではヴェド・ヴィヤーサとしてより有名な
クリシュナ・ドゥパイヤナ=ヴィヤーサが、
同じく伝説的なこの叙事詩を作ったとき、
かれは『ラーマーヤナ』の物語を
一つの章句に語りなおしてみせた。
この語りなおしは小さいが重要ないくつかの部分で異なっている。


 さらに後になり、
仏教文学が芽生え、
ふつうパーリー語で書かれたが、
やはり『ラーマーヤナ』からいくつかのエピソードをとりこみ、
その際、またいくぶん異なった角度から
光を当てて作りなおした。
それだけでなく、仏教文学は
「ダルマ」という語そのものを定義しなおし、
「ダンマ」と言いかえて、
この語をはじめいくつかの核となる概念の定義を変えた。


 十一世紀、
カンバンというタミールの詩人が、
ラーマーヤナ』伝説の自分なりの語りなおしを行った。
ヴァールミーキの『ラーマーヤナ』の翻訳の試み
と思われるものから出発したものの、
カンバンは原典から劇的なまでに逸脱した。
カンバンの『ラーマーヤナ』では
エピソードがいくつもまるまる削除され、
新しいエピソードが現れ、
人物や場所の名前が変えられ、
あるいは完全に別のものになり、
さらには大きなできごとの順序まで一部変更されている。
何よりもカンバンの『ラーマーヤナ』は
物語全体の舞台が
ヴァールミーキのサンスクリット語原典のインド北部の環境から、
十一世紀タミール・ナドゥの地理、歴史、衣裳、慣習などの環境
と明らかにわかるものに移されている。
それは本質的にまったく新しい『ラーマーヤナ』であり、
はるかに情熱的で豊饒かつ色彩に富んだ言葉で語りなおされている。


 さらに数世紀後、
トゥルシーダース仙が、この叙事詩の独自の解釈を行った。
トゥルシーダースは自分の作品を『ラーマーヤナ』とは呼ばず、
『ラムチャリトマーナス』と名づけることまでした。
これによって彼は自分が忠実な翻訳をしているのではなく、
自らの創作になるまったく新しい変奏をしていることを示した。
変更は相当なものに昇る。


 絵画、彫刻、音楽作品、
さらには舞踏、黙劇、街頭演劇の形で、
ヴァールミーキの偉大な詩の物語は
何度もくり返し語りなおされてきている。
様々に異なる無数の版があり、
小さな変更もあれば、大きな逸脱もある。
語りなおしの伝統は現代でも続いていて、
テレビの連続ドラマ、映画、人形劇、子ども向けの版、マンガ、詩、ポップ・ミュージック、
そしてもちろん毎年全国で上演されるラムリラの伝統の中で行われている。


 しかし、このうちヴァールミーキに忠実なものがいくつあるだろうか。
サンスクリット語原典を実際に参照しているものが、
仮にあるとして、いったいいくつあるだろうか。
いや、原典を探そうと試みるだけでも、いくつあるだろうか。

訳者蛇足
 この前半の部分も、ヴァールミーキ版第一篇「少年の巻(バーラ・カーンダ)」の内容をほぼ忠実になぞっている。ヴァールミーキがラーマ本人に頼まれて書く「大団円の巻」では、凱旋した後、ふたたび「世論」を気にしたラーマがシーターを離縁し、追放する。それが冒頭の「少年の巻」に回帰する。


 ついでながら、インド世界での時間の流れ方はユニークだ。過去から未来への一方的なリニアな流れではない。また、流れる速度も一定ではない。基本的には「輪廻転生」に現れるように円環を描くが、直径は一定ではないし、真円ともかぎらない。またケルトのような螺旋でも、必ずしもない。物語のつごうで、どちらにも流れるし、流れもなく単純に前後が入替ったりもする。全世界で等質の時間が流れているわけでも無いようだ。
 インドが古来から膨大な文献を残しながら、年代決定ができないのもこうした時間感覚と関係があるだろう。


 アショーカ版ではさすがに小説としての骨法は守って、全体としては時間はリニアに流れる。しかし部分的には流れ方の緩急、方向はずいぶんに違う。また、小説の中の「物語」の部分、登場人物が語る、本筋とは一応離れた物語のところは、小説としての時間の法則にはしたがわない。


 例えば、『蒼の皇子』下巻・第二部「人間以上」10章(221pp.)から始まるアナンガ仙によるアナンガ僧院の縁起譚だ。これはシヴァとサラスヴァティーと愛の神カーマをめぐる、インド神話の中でも有名なエピソードだが、神々の軍の将軍として登場した二人の息子、カールッティケーヤやガネーシャが、物語のずっと後で生まれることになっている。回想とかのいわゆる「カット・バック」ではない。物語自体はつながっている。


 こちらは普通の小説のつもりで、この部分は間違いではないのかと著者に問合せた。が、これはもうこういうものだと思ってもらうしかない、というのである。この部分は著者のオリジナルというよりも、伝統として伝えられている物語のある版を基にしている由。


 だから、ヴァールミーキ版『ラーマーヤナ』全体が、回帰構造になっていても、インド神話の中ではとりたてて大したことではない。


 ヴァールミーキ版全体の日本語での完訳はない。第二篇「アヨーディヤーの巻(アヨーディヤー・カーンダ)」までは平凡社東洋文庫にある。
 英訳では Arshia Sattar によるものがインド・ペンギンから出ている。無駄な繰返しを省略した抄訳で、現代読者には読みやすい。また、『ラーマーヤナ』の現代における意義と、古典を現代に翻訳する意義を考察した訳者による序文はまことに読みごたえのある論文になっている。アショーカも現在最高水準の英訳として推薦している。


 カンバンの版はアショーカが大きな影響を受けたと公言している版である。まず第一に『カンバ・ラーマーヤナ』にはヴァールミーキ版の「大団円の巻」は無い。全六篇で、最後はラーマとシーターの凱旋で終る。第二にラーヴァナが遙かに「人間的」なキャラクターとして描かれる。シーターに本気で惚れこんだりする。ヴァールミーキ版では単なる典型的悪役である。
 タミール語は読めないが、幸にこれも P S Sundaram による優れた英訳がインド・ペンギンから出ている。


 トゥルシー=ダースによる『ラムチャリトマーナス』は適当な英訳がない。ヒンドゥー語と英語の対訳本があるだけだ。入手はしたものの、ひどく読みにくく、はじめの数頁でぶん投げた。


 「ラムリラ」はヒンドゥーの大きな祭の一つで、ラーマがラーヴァナを殺したとされる日を中心に行われる。9月ないし10月。この祭では、村ごとにラーヴァナの巨大なハリボテが作られ、『ラーマーヤナ』を題材にした素人演劇が上演される。そして十日間続く祭りの最終日、ラーヴァナの巨大なハリボテが盛大に燃やされる。