『ラーマーヤナ』が多すぎる


 おばあさんが夜、
孫たちにこの物語を語りなおすとき、
ヴァールミーキの『ラーマーヤナ』を参考にしているだろうか。
羅刹の咆哮やラーヴァナの笑い声、
あるいはシーターの涙や
ラーマのストイックなふるまいを再現するとき、
その演技は誰のものを元にしているのだろう。
テレビの連続ドラマで俳優がラーマが演じるとき、
あるいはラムリラの演者があるシーンを演じるとき、
彫刻家が彫像を彫るとき、
画家がスケッチをするとき、
それらは皆誰を参考にしているのだろう。
ヴァールミーキの『ラーマーヤナ』に挿絵は一切無い。
当時のラーマの肖像画でこんにち残っているものはない。
その声の録音も、
行状の映像記録もない。


 たとえば、シーターが自分も追放に同行するのを認めるよう
ラーマに頼みこむシーンだ。
ヴァールミーキの『ラーマーヤナ』では、
ラーマがシーターに自分は国外追放されることになったと告げ、
シーターが同行を認めてほしいと頼むと、
すげなく拒む。
はじめシーターは涙を流して懇願するのだが、
ラーマが頑固に拒みつづけると、
シーターは怒りだし、
驚くほど激しい言葉遣いで非難する。
シーターはラーマを「男のふりをした女」と呼び、
「ラーマほど偉大な人はいないと言うなら世間はまちがっている」といい、
ラーマは「弱気になり怯えている」
「演技をしている役者」
などのとっておきの形容を浴びせる。
これはヴァールミーキの『ラーマーヤナ』でも長い方のシーンで、
ラーマの幼い子どもの頃全体を述べる部分と
ほとんど同じくらいの長さなのだ。


 タミール語詩人カンバンは、
より圧縮した、快活で芳醇な文体で
このエピソードを語りなおし、
シーターの抗弁を二、三の簡単な非難にとどめている。
「ラーマが追放に自分を連れていかず、
私を後に残してゆく本当の理由は、
そうすれば森で好き勝手に遊びまわることができるからでしょう」


 トゥルシーダース仙の校訂本まで下ってくる頃には、
シーターの非難は、
わずかな涙ながらの忠告や訴えにまで弱められている。


 こうした変化は、
わが国において標準的な男女間のふるまいとして
社会的に認められているものが変化したためだろうか。
その可能性は大いにある。
トゥルシーダースの『ラムチャリトマーナス』が描く世界は
ヴァールミーキや、あるいはカンバンが描く世界とも
大いに異なる。
それどころか、
この三つの版は、
使われている言語、
人びとが着る衣装、
そこに現れる社会的文化的な様々な要素において、
各々あまりに異なっているため、
おたがいほとんど独立のものに思えるほどだ。


 もう少し我々の身近な時代で
最も人口に膾炙しているのは、
カンバン版からいくつかのエピソードを抜萃し、
タミール語版から英訳されて
50年ほど前に子ども向け雑誌に連載されたものかもしれない。
C・ラジャゴパラチャーリ別名ラジャージによるこの版は、
子どもの頃の私のお気に入りでもあった。
この愛するラジャージ版が、
オリジナルの物語からいくつものエピソードをまるまる削ったり、
残った部分も相当に単純化していたことを私が発見するのは、
ずっと後になって自分で詳細な調査をした時である。
さらに後になって、
私はまた、その他の面では偉大な作家R・K・ナラヤンによる
また別の版にひどく失望させられた。
容赦なく短縮したナラヤンの版では、
物語の簡略化があまりに軽率に行われているので、
ヴァールミーキが生みだした、
豊饒で力強く、神話的な叙事詩というよりも、
道徳的な寓話になってしまっている。


 イングランドの学者ウィリアム・S・バックによる十九世紀の版は、
英学界では古典とされているらしいが、
何かアルコールの影響のもとに書かれたように読める。
インドの諸版からの重大な逸脱の一つは、
猟師のニシャーダ族の酋長グハが、
これといってはっきりした理由もなく、
口角泡を飛ばして婆羅門を罵り、
しまいにはシヴァ神の像を蹴とばす。
さらに混乱を増すのは、
この章についている挿絵では、
グハが蹴っているのは仏像のように見えるのだ。


 インドの外、東へと旅すると、
ヴァールミーキのものからは遙かに離れた
様々な『ラーマーヤナ』に出会う。
中には同じ物語とはほとんどわからないものもある。
相互に異なるアジアの諸文化に分布する
叙事詩の様々な版の最近のある研究書では、
インドネシアのある老ムスリム夫人は、
インドにも独自の『ラーマーヤナ』があることを
著者から聞いて驚いたそうだ。
タイの歴代の王は王としての様々な称号とともに必ずラーマを名乗り、
自分たちをラーマ・チャンドラ直系の子孫と考えている。
最大のラーマ寺院、
こんにちでも畏怖を与える廃墟があるのは、
インドでも、
またヒンドゥー教を国境とする唯一の国ネパールでもなく、
カンボディアである。
その寺院はアンコール・ワットと呼ばれる。


 実をいえば、
この物語を知っている、
あるいは知っていると称する人間集団がいれば、
その数だけの『ラーマーヤナ』があると言っても過言ではない。
そしてまったく同じ版は二つとしてないのだ。