わがラーマーヤナ:個人的遍歴


 それでもなお、
様々に異なる版や変装の民主的ごたまぜの方が良いか。
それとも断片的にしか回復することのできない、
ほとんど忘れられた神話のように、
忘却され廃れてぼんやりと思い出されるだけの物語であった方が良いか。


 ヴァールミーキの「オリジナル」の『ラーマーヤナ』は、
当時の言語であるサンスクリット語で、
しかも当時にあってはひじょうにモダンな表現形式で書かれている。


 カンバンの誇張を多用する修辞と色彩豊かな描写は、
壮大な霊感に満ち、
書かれた当時にふさわしいものではあっても、
やはりこんにちにあっては時代錯誤だ。


 トゥルシーダースの解釈は
聖典とみなされているのは妥当としても、
男女関係の描写はいささか不器用にも見える。
物語自体の写実的な語りなおしというよりも
ラーマ神の神聖への宗教的捧げものだ。


 ヴェード・ヴィヤーサの版では、
ラーマの不運、
悪意あるマンタラー、
心得違いをしたカイケーイー、
不届きなラーヴァナと
いう仕掛けによって引きおこされたものの、
その三つのいずれも根本原因ではない。
それだけでなく、阿修羅のせいでもないのだ。
根本原因はブラフマー神自体、
世の善悪の永遠なるバランスを保つため、
ラーヴァナとその阿修羅によって恒久化された悪の世界を、
ヴィシュヌの人間としての化身を使って一掃しようとしたブラフマー神である。


 わたしがこの語りなおしを試みた理由は
単純で、きわめて個人的なものだ。
きわめて不幸な形で破れた結婚、
二つの異なる文化
(英印混血のキリスト教徒とグジャラート出身のヒンドゥー教徒
の両親が、
たがいの違いを認め、共通基盤を見いだすことに
暴力的といえるほど辛い形で失敗した結婚から産まれた子どもとして、
私は文学になぐさめを求めた。
私が最初に読んだ本は、
たまたま神話学の分野のものだった。
そのいにしえの原-物語の
単純な力と英雄的勝利に
ひどく刺激を受けたあまり
私は作家となり、
同じくらい偉大な、
同じくらい他人を動かせるような
独自の物語を書こうと決意した。
可能ならば、
すべての人間の魂に共通の争いと苦闘、
そして最終的勝利を示すことによって、
異なる文化に橋を架け、
本質的に異なる人生を結びつけることを試みよう
と決意したのだ。


 それはまだほんの子どもの時だった。
盗賊・武装集団(ダコイト)の一員だった頃のヴァールミーキほど
波瀾万丈ではないものの、
生きる戦いを30年続けた末、
私はもう一度『ラーマーヤナ』を読みたいという、
説明のつかない強力な衝動につきうごかされた。
どの版を読んでも何かが欠けていた。
作品との「つながり」としか言いようのない、
致命的な何かがなかった。
ある多難の時期、
自分自身の倫理的難問と戦いながら、
私は書きはじめた。
様々なエピソードの自分自身の語りなおしを書きはじめた。
心の中に
イメージが、シーンが、登場人物同士の会話が
丸ごと、爆発してきた。
見えた、聞こえた、感じた……書いた。
私はブラフマー神にあおられていたのだろうか。
私は読者を想定していなかった。
私自身と――そしてあらゆる人を除けばだ。
執筆の過程で、私は人が変わった。
私は平穏を、あるいは平穏のようなものを得た。
人びとがラーマやクリシュナや、
その点で言えばデーヴィー、私自身の特別な「母(マア)」を崇拝するのに、
どうして命を捧げられるのかがわかった。
しかし同時にこの物語が、
宗教を越えたもの、
国籍を越えたもの、
人種も膚の色も思想信条も越えたものであるとも感じた。


 我らが古典である「最初の芸術詩(アディー・カーヴィヤ)」のような
偉大で貴重な物語を語りなおすことは、
軽々しく試みるべき事業ではない。
私がまずやったことは、
手に入るかぎりのあらゆる既存の語りなおしの版を研究し、
これまでになされたことや様々な語りなおしの間の違いを知り、
その理由を理解しようとしてみることだった。
私はまた広い範囲の知人や赤の他人と話をして、
何千年にもわたって口承されてきたことが、
物語の受けとめ方をどう変えたか、
跡づけようともしてみた。
最も驚いたことの一つは、
ほとんどの人はヴァールミーキの「オリジナル」の『ラーマーヤナ』を
実際にはまったく読んだことがなかったことだ。
それどころかほとんどの人にとっては
トゥルシーダースの『ラムチャリトマーナス』が『ラーマーヤナ』であり、
サンスクリット語作品を正確に反映していると思われていた。
真実からこれほど遠いこともない。


 たとえばヴァールミーキの『ラーマーヤナ』では
ダシャラタは三人の公式の王妃の他に
350人の愛妾を持っていると述べている。
その当時の王としては当然の行為であり、
老齢の王が女性を偏愛していたことは正直に描かれていて、
どんな形であれ、女性排斥の兆候は全く無い。
ヴァールミーキはダシャラタが肉体的快楽を好んだことに
何の論評も非難も加えずに、
ただ単にそのことを述べている。
ラーマが隠棲に赴く前、
父親に別れを告げる舞台は愛妾たちの宮殿で、
愛妾たちは皆、主人の息子が追放されることに大いに涙を流す。
ヴァールミーキが女性を描写する時には、
その肉体を解剖学的に一つひとつ数えあげる。
そこには気後れも狂信的男性中心主義も、かけらもない。
ヴァールミーキは単純に女性の登場人物の美しさを称賛しているので、
それはラーマやハヌマンや、そうラーヴァナも含めて
男性の登場人物の扱いとまったく変わらない。
カンバンの版でも、
女性は成熟した、絢爛たる表現で描写されているので、
私のような現代の読者は気恥ずかしさに顔が赤くなるほどだ。
しかし、著者はそうした章句でも
ぎこちなさや猥褻さはまったく見せていない――
単純に同時代の服装やファッションに感じたままを描いているに過ぎない。


 トゥルシーダースやそれ以後の版の時代まで下ると、
ラーマは人間に化身した神そのものになる。
そしてこの前提に合わせて、
関連する登場人物はすべて、
それにふさわしく描かれる。
したがってダシャラタの肉欲の道楽はめだたなくなり、
女たちは完全に服を着て、控えめな外見となり、
その美しさは世俗的なものよりもむしろ超越的なものになる。


 自分の語りなおしのアプローチをどうすればよいか。
一方では『ラーマーヤナ』は古代インドで起きた実際のできごとを
サンスクリット語叙事詩にしたとは考えられておらず、
ヴィシュヌ神の人間の化身の一つの行動による道徳的寓話とされている。
それに対して私は
叙事詩時代のインドの古代世界の生活を、
その栄光と壮麗さもすべてそのままに蘇らせ、
人間を動かす神威だけでなく人間そのもののドラマを探求し、
善対悪のモノクロの描写よりも、
発言や行動や選択の持つニュアンスを示す必要性を感じた。
より重要なことは、
オリジナルの物語に忠実でありながら、
いかに新鮮で新しいものを提供することができるか。
すべてのエピソードと登場人物たちが敬意をこめて、
しかも実在感をもって描くことをどれだけ確実にできるか。


 すでにあるどれかの版を
単純に語りなおすことにほとんど意味はない――
すでにある様々な版のどれかの形の『ラーマーヤナ』を読みたい向きは、
単純に既存の版のどれかを読めばよい。


 とはいえ、
完璧な、あるいは「サンポールナ」『ラーマーヤナ』、
すなわち様々なインド版の語りなおしの
多様な、矛盾することも少なくない解釈を統合しながら、
読者を多様な登場人物の
精神と魂の奥深く引きこもうと試みることは
かつて一度も行われたことがなかった。
プロットを単純になぞるのではなく、
物語全体、古代インド世界全体に息を吹きこむことだ。
言葉で語りなおそうと試みる人びと、
古典舞踊の踊り手なら誰でもすること、
物語にもう一度命をふきこむこと。


 それをするために私は現代的な表現形式を選んだ。
単純に自分が話す時の形、
英語、ヒンディー語ウルドゥ語サンスクリット語
それにインド諸言語から借りた様々な用語の混合物だ。
「アブス(離脱)」や「モーフ(形態)」のような
時代錯誤的な用語をわざと使った。
そうしたエピソードをさす時、自分で使っていたからだ。
章やシーン、登場人物の会話や行為は
一つひとつすべて先行の『ラーマーヤナ』、
ヴァールミーキであれ、カンバンであれ、
トゥルシーダースあるいはヴィヤーサであれ、
様々なプラーナまで含めて、
そのどれかに基いている。
読者がここで読むことになるものは、
あらゆるものが、実際に調べたこと、
あるいは先行作品に記されたどれかの細部を
私なりに解釈したものだ。
体裁そのものはもちろん、完全に私のオリジナルである。


 シーターが自分も隠棲に同行させるようラーマに懇願するシーンを例にとろう。
この語りなおしで私はラーマとシーターの関係を
肉体的あるいは社会的な側面を越えたレヴェルで探求しようとした。
二人の愛は永遠に宿命として定められたものであり、
あらゆる人間の絆を超越すると信じた。
そう、あるレヴェルでは二人はヴィシュヌとラクシュミーと信じた。
しかし現在入っている化身では二人はラーマとシーター、
大いなる騒乱と苦闘の時代に捕えられ、
厳しい選択を迫られた二人の若者でもある。
神としての二人の背景や宿命カルマが何であれ、
今、ここではふたりは血肉を備えたふつうの人間として、
一時に一つずつその役割を果たしてゆかねばならない。


 私は写実的なアプローチをとり、
自分自身を(したがって読者を)
その選択の瞬間のラーマとシーター二人の感情と思考に入りこませた。
二人の苦悩、
大いなる悲しみと混乱、
自分たちの力ではどうにもならない事態への欲求不満、
そしてダルマに照らして正しいこととなされねばならないことを
最終的に受けいれる気持ちを感じた。


 私の版では、
二人はこういう状況におかれた若い夫婦として言いあらそい、
怒りと混乱した感情を現す。
が、最後にシーターがラーマに訴えるのは
義務とダルマだけがよりどころではない。
夫が心底自分を愛していること、
そして自分たちを結びつけているのは
単に結婚関係にまつわる義務や公式の社会的紐帯だけではなく
心からの誠の愛でもあることを
確かなものとして知っている妻としてである。
涙を流した後、
他のすべての選択肢をたがいに検討し、
そして斥けた後に、
シーターはただラーマの名を呼び、
妻として、恋人として、最も親しい友として訴える。

 「ラーマ」
 シーターは言った。
両腕をラーマに向けてあげ、頼みこむのではなく、求めた。
 「では、一緒に行かせて」


 そしてラーマは承諾する。
神としてではなく、
化身としてでもなく、
皇子としてですらない。
シーターを愛し、敬愛する男として。
そして相手を必要とする者として。