巨人たちの足跡を踏んで


 ひとつ、はっきりさせておきたい。


 これはヴァールミーキの物語ではない。
カンバンのものでもない。
トゥルシーダースのものでもない。
ヴィヤーサのものでもない。
R・K・ナラヤンのものでもない。
ラジャージの、楽しい子ども向けの縮約版でもない。


 これはラーマの物語だ。
そしてラーマの物語は我々一人ひとりのもの、
みんなのものでもある。
黒人、褐色人、白人、アルビノ
老人、若者。
男性、女性。
ヒンドゥー教徒キリスト教徒、ムスリム、あるいはあなたが支持する信仰。
すべて同じだ。
ある記者会見で、私はバブリ・マスジドの破壊について、
この事件と私の『ラーマーヤナ』との関係についてコメントを求められた。
ラーマーヤナ』は三千年間生きてきたものであり、
永遠に生きつづけるだろうと答えた。
わたしに言わせればアヨーディヤー
単にウッタル・プラデシュ州北中部の地名ではない。
それはわれわれの心の奥底にある場所だ。
何よりも神聖なるその場所に、
アヨーディヤーは永遠に生きつづけ、
その輝きと美しさは、聖別された煉瓦で造られようとも
どんな寺院にもありえないものだ。


 ラヴァとクシャが
ヴァールミーキの『ラーマーヤナ』を朗唱するのを初めて聞いた時、
ラーマ物語の主人公たるラーマ自身、
賢者によるエピソードの語りに仰天した――
つまるところ追放された後、シーターがどうなったかも、
ラヴァとクシャの少年時代も知らなかったし、
実に雄弁に語られた、
二人の母親の目から見た様々のエピソードも、
それまで知らなかったのだ。
そして将来のできごとについての巻を書くよう
ヴァールミーキに命じたことで、
ラーマ自身がヴァールミーキに自らのお墨付きを与え、
すでに知られたこと「のみならず知られておらぬ」
ラーマの所行をうたうようにと言う
ブラフマー神の励ましに一層の重みを与えたのだった。


 かくて『ラーマーヤナ』の語りと語りなおしの伝統が生まれた。
その伝統をカンバン、トゥルシーダース、ヴィヤーサをはじめとして
数多くの人びとが受けついだ。
こうした詩人たちの作品によって、
時代を超えてこの大いなる物語は我々の中に生きつづけている。
物語が姿や構成を変え、形や内容まで変えているとすれば、
それはそのことが物語自身の持って生まれた性格だからだ。
物語が語り手を刺激し、
新たな版の一つひとつに新鮮な洞察をもたらし、
ラーマ自身の理解にまた少し我々を近づける。


 この物語は果てしなく語られ、
語りなおさねばならない理由がここにある。
語りなおすのは私であり、あなたであり、
子どもたちに聞かせているおばあさんである。
語る人は場所も身許も問われない。
私が初めて『ラーマーヤナ』を聞かせてもらったのは祖父の膝の上だった。
祖父はタバコガム(パアナ)を噛むのが異常なほど好きで、
その息はついもタバコの強烈な匂いがした。
私はライオンが大好きだったので、
祖父は『ラーマーヤナ』の語りなおしにたくさんのライオンを登場させた――
ラーマがライオンと戦ったし、シーターも戦った。
確かマンタラーまでが、ライオンに脅されておとなしくなったこともあった。
祖父の名は偶然にもラムチャンドラ・バンカーといった。
祖父はタバコを噛む習慣でできた喉頭ガンで亡くなった。
しかしその喉が機能を停止する前に、
祖父は物語を私に受けわたしてくれたのだった。


 そして今、
私は物語をあなたに受けわたす。
あなたが望むなら、
そして望む時にだけ、
この本を読んでいただきたい。
あなたにこの本を読む時機が熟していれば、
物語はあなたを呼ぶはずだ。
私が呼ばれたように。
もし呼ばれたならば、
あなたにはたいへんなごちそうが待っている。
この後に続くページに新たに語られ『ラーマーヤナ』は、
物語そのものが生きて、息をしている。
生まれたばかりの化身なのだ。
いま現在生きている書き手によって、
いま現在生きている表現形式で語られたものだ。
長年にわたって無数の作家たちが、
その生きた時代におこなってきたことを、
この大いなる物語のためにおこなった私のささやかな試みである。