『ラーマーヤナ』映画化続報

 一方、『ラーマーヤナ』の映画化である。


 こちらもより具体的に書かれている。

Q:あなたの『ラーマーヤナ』は映画化されるのですか。


A:される。私の『ラーマーヤナ』の大がかりな映画化が現在進められていると、ようやくはっきり言えるようになった。ここ数年の間に、私は本格的な映画化の提案を何本も受けた。その中には、ワーナー・ブラザーズ、サー・ベン・キングスレイ・ピクチャーズ、マイケル・ラドフォード&クリス・ローズ、フューチャー・グループ、キャニオン・エンタテインメント、エンデヴァー・エージェンシー、ウィリアム・モリス・エージェンシー、アドラブズ・フィルム、ILM 関係者、ニュー・ライン・シネマ、『300』の監督とプロデューサー、といった人びとがいる。いずれも私の本の熱狂的なファンであることを表明した。私はついにある了解覚書に署名し、最初の映画が製作準備中だ。制作は2008年中に始まる。キャストとスタッフについては、現時点では確定的なことは言えないが、大物が何人かあてられていることは承知している。映画はハリウッドのメジャー作品であり、三部作で、予算総計は5億ドルを優に超える。


サー・ベン・キングスレイは1982年『ガンディー』でアカデミー主演男優賞を受けたインド系イギリス人。


マイケル・ラドフォードはインド生まれのイギリス人監督。


フューチャー・グループはおそらくインドの一大流通産業グループのこと。


キャニオン・エンタテインメントもインドの映画・娯楽企業。


エンデヴァーウィリアム・モリスはハリウッドの五大タレント・エージェントの一角。
エンデヴァーは渡辺謙をクライアントに持つ。


アドラブズ・フィルムは映画を中心としたインド最大の娯楽産業財閥。


ILMジョージ・ルーカス率いる特殊撮影スタジオとして有名。


ニュー・ライン・シネマはもちろん『指輪物語』を映画化し、今度は『ホビット』制作を発表している。


『300』ペルシア戦争の有名なテルモピレーの戦いを題材にしたフランク・ミラーのグラフィック・ノヴェルを映画化したもの。


 念のために書いておくと、著者が覚書をかわしたのは
ここに名前があがっている人びとではないわけだ。
もっとも、これから作られる映画にこの人たちが関係しない
というわけでもないだろう。
サー・ベン・キングスレイがヴィシュワーミトラを演じたり、
ILM が特殊技術を担当したり、
エンデヴァーやウィリアム・モリスのクライアントが出演したり
する可能性はある。


 三部作ということは
原作2冊ずつが1本の映画になるのか。
それとも最初の3冊が3本になるのか。


 常識的には前者だろう。
実際、この6冊は2冊ずつの三部作としても読める。
昨年夏にインド国内だけで出たハードカヴァー版は三分冊である。
この場合第1部はミティラーでの戦いがクライマックスとなる。
第2部は追放されたラーマたちと羅刹の死闘からハヌマンの軍勢が立つまで。
そして第3部はランカーを撹乱するハヌマンの活躍と最終決戦。


 第3部を埋めつくす知恵ある猿ヴァナール族や熊族はCGになるのだろうが、
ヴァナールの一部、ハヌマンや猿族の王スグリーヴァ、
それに最終決戦で羅刹の指揮官のひとりとタイマンをはって
強烈な印象を残すヴァナールの女族長マンダラ・デーヴィーなどは
俳優が演ずるはずだ。


 この1対1の対決は全篇を通じて最もすさまじい格闘といってもいいが、
はたして映画の中できちんと描かれるか。


 熊の王はCGにするにはもったいない役どころだが、
姿はまったくの熊そのままだから、
俳優は声だけの出演になるのだろう。


 同様なことは羅刹をはじめとするラーヴァナ側にも言える。


 もともとぼくは小説の映画化は好きでなく、
『指輪』すら見ていないし、見る気もないのだが、
こればかりは思わずこんなことを考えてしまう。

Mba 続報

 著者公式サイトの FAQ が改訂された。
Mba(『マハーバーラタ』) と『ラーマーヤナ』映画化について、
もう少しくわしい話が載っている。


 まずは Mba

数週間以内に完成原稿を出版社に渡しはじめ、
刊行は年内に始まるだろう。
その後はできるかぎり、
短い間隔で刊行を続けるよう努力する。

 正直、ほっとした。
必ず書き上がり、
刊行されると信じてはいたものの、
スケジュールが具体的に語られることに勝るものはない。


 アショーカは一度書きだせば速筆という。
毎回最も苦労するのは書出しで、
執筆が軌道に乗れば、
後は書く速度に加速度がつき、
最後の100ページほどは一気呵成だそうだ。
ラーマーヤナ』はそうして書かれた。


 Mba については、
ある程度までいった原稿を完全にボツにすることも
何度もあったらしい。
そうしてまた初めから書き直す。
書いたものをまた書き直す。
さらに改訂する。
できていたものを全部捨てさって、
初めから書く。


 あるいはそれは彫刻にも似ているかもしれない。
本来あるべき姿を彫りながら探ってゆくように、
本来の物語とその語り方を探ってゆく。
語り継がれてきた物語の本来の姿と
アショーカ版としての独自の物語の本来の姿が
まじわり、とけあい、新たな物語として
みずから語りだすところを求めて書き続ける。
書き続け、書き直しつづけることでしか、
そこをみつけることはできない。


 それを掴んだのが今年に入って1月18日の夜、
と著者はいう。
そのことに気がついたのはそれから1週間後。

 執筆は建築とは違う。執筆と改訂と繕いと研磨と編集と書き直しの間が、明確にわかれているわけではない。その晩、第1巻の草稿が、最終的な決定稿になりはじめていたと気がつくのに、1週間かかったのはそのためだ。

 かくて21世紀に生きる読者のための『マハーバーラタ』が
ついにその姿を現しはじめた。
その姿を見ることができるのは、
今はまだアショーカだけだ。
あと2、3ヶ月で、版元の編集者が見られるだろう。
さらに数カ月で、一般読者も見られるようになる。
少なくともその一部、
頭の先端が見えだす。

コリィ・ドクトロウ「シスアドが地球を治めた時」α版

をようやく脱稿。
わからないところなど著者に聞いてから清書、
β版として、ここにアップする予定。
ちと長いので、エントリーを分けた「連載」になるであろう。
原作も書き上がるごとに
何回かに分けてアップされたそうだ。


 シスアド独特の言葉遣い、
あるいはまちがい、つまらないところなど
ご教示いただいて、
無事ゴールデン・マスターを迎えられればうれしい。


When Sysadmins Ruled the Earth
by Cory Doctorow
著者サイトのページ


原文(Baen's Universe, 2006.08)

Mba と『ラーマーヤナ』映画化

 われらが『ラーマーヤナ』の著者のブログで
大きなニュースが続いた。
ひとつは Mba について。
この記号はアショーカ版『マハーバーラタ』をさす。
Mba というタイトルで出版される計画なのである。


 あのような『ラーマーヤナ』を書いた以上、
次は『マハーバーラタ』と期待するのは
作家にとっても読者にとって当然。
とはいえ、
なにせ単純に分量だけでも『ラーマーヤナ』の10倍ぐらいはあり、
内容の複雑さは比較にならない。
書きだしたと宣言が出て、
冒頭の部分の「抜粋」も公表されたりしたのだが、
その後、一向に進展の話がなかった。
むしろ、慎重すぎるくらい慎重に、
出るのはまだまだ先のこと、と繰りかえされるばかりだった。


 その Mba の執筆がついに軌道に乗ったと
今日付で書き込んでいる


 5年間の試行錯誤の末、
ついにほんとうに書かれるべき「物語り」がすべりだした、
というのはまことにうれしい。
翻訳できるかどうかとはまったく別に、
アショーカのペンになる、
いやキーボードから叩き出された『マハーバーラタ』を読める日が
とうとう視界に入ってきたのだ。


 文章はこれまで公表されたものは完全に消えているというが、
1,000ページの本が16冊という計画は変わらないらしい。
変わったとしても、増えることはあっても減ることはあるまい。
ちなみに『ラーマーヤナ』は約500ページが6冊で、
全部邦訳して四百字詰め原稿用紙6,000枚強。
Mba は概算30,000から40,000枚というところ。



 もうひとつのニュースは『ラーマーヤナ』の映画化である。
アショーカ版『ラーマーヤナ』の映画化権のオプションを
しばらく前に著者は売っている
相手はあるインド系アメリカ人のプロデューサーのようだ。


 その映画化が進行しているらしいことが、
今日付のもうひとつの記事に出ている。



 この映画化については著者はどうも奥歯に物のはさまったような書き方をする。
何でもストレートな物言いが身上のこの人としては珍しいが、
それだけデリケートな話なのではあろう。


 とにかく数ヶ月以内に撮影が始まる
という知らせを著者は受けている
という消息はありがたい。
まだまだ「指をクロスさせて」順調な進行を祈っていた方がよさそうだが。

「グーグル詰め」ノート

 なんと、すでに日本語訳が存在していたのだった。


 しかも昨年9月29日にポストされているから、
各言語版の中でも最も早い時期ではないか。
ちなみにオリジナルは9月12日のリリース。


 考えてみれば、
いちいち著者にことわる義務はないので、
著者サイトのリストに載っていない翻訳が
他にもあるだろう。


 それにしても検索はしてみるものである。


 まあ、ある作品の翻訳は
種類が多ければ多いほど
読者にとっては利益になる。
ふつうは作者が死んでウン十年も経ち、
著作権が切れたものでないと、
複数の翻訳は出ない。


 今回は作者がクリエイティブ・コモンズのライセンスで
公開してくれているので、
こういうことが可能になった。


 ちなみにイタリア語版も二つある。
ほとんど同時にポストされているから
おそらくたがいに独立してやったのではないか。


 もっともクリエイティブ・コモンズ自体は
将来はともかく、今のところ
ネット上だから可能なのであって、
従来の紙媒体ではやはり無理だろう。


 著者自身、ネット上のデジタル版と紙版は
明確にわけて考えている。
この辺のことは
SOMEONE COMES TO TOWN, SOMEONE LEAVES TOWN の序文にくわしい。


 タイトルについてや、
訳注めいたことを書くつもりだったが、
先行翻訳をみつけてしまったので、
また後日。

新装開店

 というわけで、新装開店。


 『ラーマーヤナ』の続きは当分出ない。
これが売れない一番の原因は
インドの固有名詞になじめない人が多いことらしい。
インド自体への関心は高まっているから、
いずれはわれわれの時代が来ると信じてはいるが、
カネの方面ばかりとりあげられる事情を見ていると、
時間はかかりそうである。



 まあ他にも翻訳に値するものはたくさんある。
ここに訳出したのは、
アメリカの作家コリィ・ドクトロウが昨年
ある Web 雑誌に発表した短篇。


 ドクトロウは著作権についてさばけた考えの持ち主で、
2本の長編も含め、全作品をネットで公開している。
ネット環境があって、その気になれば、
事実上タダで全部読める。


 そのほうが本も売れる、というのが彼の考えで、
それが正しいことはすでにいろいろの形で証明されている。
なにより、そうでなければケータイ小説のベストセラーなど
生まれるはずがない。


 公開するだけでなく、
どれもクリエイティブ・コモンズのライセンスになっていて、
その条件に従うかぎり、
自由に翻訳、翻案(映像、演劇など)していいよ、
という太っ腹なやり方だ。


 この翻訳自体も同じライセンスを継承している。
とはいえ、これを利用して何かする場合には
ご一報いただければありがたい。
なにか、一緒にできるかもしれないし、
場合によっては著者を巻きこむこともできるだろう。


 また、この翻訳でおかしいところ、つまらないところなどがあれば、
ご指摘ください。
改善に努めます。


 著者のこの態度にこたえて、
複数の作品の英語以外の言語への翻訳がネット上でされている。
そのうち、最も人気が高く、翻訳がダントツに多いのがこの "Scroogled" だ。
著者のサイトのリストによるとこの日本語が15番め。
著者の話ではもうすぐキムリア(ウェールズ)語版ができるそうだ。


 ちなみにその他の言語版を出現順にしるすと、


スペイン語
ペルシア語
ロシア語
オランダ語
ドイツ語
ポーランド
ポルトガル語
イタリア語 (D)
ルーマニア語
マケドニア
イタリア語 (R)
ラトビア
トルコ語
ブルガリア
フランス語


 最後の二つは日付がわからないのでここに置いた。
アジアの言語が少ないのが印象的。
中でペルシア語版がいち早く出現しているのはおもしろい。
これからどこまで増えるか、楽しみでもある。
『ハリポタ』の数を抜けるか。


 こういう試みはおもしろいので、
ヒマを見てコリイの他の作品も翻訳してみようかと思っている。
リクエストがあればどぞ。


 なお、コリィの第一長篇 DOWN AND OUT IN THE MAGIC KINGDOM は早川書房からマジック・キングダムで落ちぶれて (ハヤカワ文庫SF)
『マジック・キングダムで落ちぶれて』]として公刊されている。

「グーグル詰め」コリィ・ドクトロウ

グーグル詰め


コリィ・ドクトロウ
おおしまゆたか=訳


 「これ以上高潔な者はいないという人間の書いたものを、
なんでもよいから6行分持ってきたまえ。
書いた人間を縛り首にする口実を必ず見つけてしんぜよう」
               ――リシュリュー枢機卿


「われわれはまだあなたについて十分知ってはいませんよ」
     ――グーグルCEO エリック・シュミット



 グレッグがサンフランシスコ国際空港に降りたったのは午後8時だった。が、
税関に並んだ列の先頭に来たときには真夜中を回っていた。ファースト・クラ
スから出てきたグレッグは真黒に灼け、不精髭をはやし、動作もしなやかだっ
た。カボの海岸でひと月過ごしたおかげだ(週に3日はスキューバ・ダイビン
グ、残りはフランス人の女子学生をひっかけて過ごした)。ひと月前、街を離
れたときには、猫背に腹のつきでたボロクズだった。ひと月後には褐色の神さ
ながらで、客室前方に立つスチュワーデスたちから尊敬の眼差しを浴びた。

 税関の列に4時間ならんでいる間に、グレッグは神から人間にずり落ちた。
昂揚感はすり切れ、尻の割れ目に汗がしたたり落ちる。肩と首ががちがちに凝
り、背中の上半分はテニス・ラケットのガットみたいにぱんぱんだ。iPod
電池はとうの昔に切れていたから、すぐ前の中年夫婦のおしゃべりを聞くとも
なしに聞いているほかなかった。

 「最新テクノロジーの驚異ね」

 妻がそう言って近くの看板に肩をすくめてみせる。
 看板にはこうあった。

 「入国審査―― Powered by Google

 「始まるのは来月からじゃなかったか」

 夫の方は大きなソンブレロを頭にかぶったり手に持ったりをくり返している。

 入国審査でまでググるだって。かんべんしてくれ。グレッグは半年前にグー
グルを退職していた。ストック・オプションを現金化し、「自分の時間をとり
もどす」ことにしたのだ。それは結局思ったほど見返りのあるものではなかっ
た。やめてからの5ヶ月間にしたことといえば、友だちのパソコンを直し、昼
間のテレビを見たことぐらいだ。体重も5キロ増えた。ずっと家にいて、グー
グルプレックスに行かなかったせいだ。何でもそろって24時間開いているス
ポーツ・ジムである。

 もちろんこうなることはわかっていたはずだった。連邦政府は入国する人間
の指紋と顔写真を水際でとる事業に150億ドルの大盤振る舞いをしていたが、
ひとりのテロリストも捕まえたためしがなかった。お役所には「きちんと調べ
る」仕組みがないのは明らかだ。

 DHS(国土防衛省)の係官は眼の下にクマをつくりながら画面にむかって顔
をしかめ、ソーセージのような指でキーボードを叩いていた。このくそったれ
の空港から出るのに何時間もかかっているのもムリはない。

 「こんばんは」

 声をかけながら、グレッグは汗まみれのパスポートをわたした。係官は何や
らつぶやいてパスポートを機械に通し、画面をにらんで、タイプした。やたら
にキーを叩いている。口の隅に食べもののカスがこびりついている。舌が出て
きて、それをなめた。

 「1998年6月の件はどういうことです」

 グレッグは機内誌から顔を上げた。

 「何ですか」

 「あんたは1998年6月に alt.burningman に、あるフェスティヴァルに行く
つもりだと投稿している。『メスカリン・サボテンを食べるのはほんとにそん
なにマズいことなのか』ときいてますね」


 二次検査室の審問官はさっきの男より年が行っていて、あまりにガリガリ
ので、木の彫刻に見えた。質問はメスカリン・サボテンよりずっとつっこんだ
ものだった。

 「あなたの趣味ですが、模型ロケット作りのマニアなんですか」

 「何ですって」

 「模型ロケット作りです」

 「いや」グレッグは答えた。「そんな趣味はありませんよ」

 次にどういう質問がくるか、わかるような気がした。

 男はメモし、何度かクリックした。

 「というのも、あなたの検索結果とグーグル・メールにくっついて出ている
広告の中で、ロケット部品の関係が突出してるんですよ」

 グレッグは腹がでんぐり返るのを感じた。

 「ぼくの検索結果やメールを覗いてるんですか」

 このひと月、キーボードには触りもしていなかったが、検索窓に入れた語句
のほうが、かかりつけの精神分析医に洩らしたことより、よほど自分のことを
曝露していることはわかっていた。

 「いや、興奮しないでください。あなたの検索自体を覗いてはいません」わ
ざとらしく、訴える口調だ。「それは憲法違反です。われわれが見ているのは、
あなたがメールを読んだり、検索したりしたときに表示された広告だけです。
そのことを説明したパンフレットもあります。これが終わったらお渡しします」

 「だけど、広告なんて何の意味もないでしょう」グレッグはどもりそうに
なった。「アイオワ州クールターに住んでる友人からメールをもらうたびに、
アン・クールターの着メロの広告が出るんですよ」

 男はうなずいた。

 「わかります。ですから、私がここで直接お話ししてるわけです。では、模
型ロケットの広告がなぜそんなに頻繁に出てくると思われますか」

 グレッグは頭を絞った。

 「じゃあ、これはどうです。『コーヒー狂い』で検索してみてください」

 かれはこのグループの中心メンバーの一人で、「今月のコーヒー」頒布会用
のウェブ・サイトを立ちあげるのを手伝った。グループが打ち上げようとして
いたブレンドは「ジェット燃料」と「打ち上げ」という名だった。グーグルが
模型ロケットの広告を吐きだしたのは、たぶんそのためだ。

 木彫りの男が例のハロウィーンの写真を見つけたのは、いよいよもう終わり
というときだった。そいつは「グレッグ・ルピンスキ」の検索結果で、3つも
先の画面に埋もれていた。

 「そのパーティのお題が湾岸戦争だったんですよ」グレッグは答えた。「場
所は〈カストロ〉です」

 「で、あなたの仮装は」

 「自爆テロリスト」

 おどおどした口調になった。口にするだけでひるんでしまった。

 「一緒に来ていただきましょう、ルピンスキさん」


 解放されたのは午前3時だった。スーツケースは引渡し場の手荷物用コンベ
アの上にぽつんと置かれていた。持とうとしてみると、どれも一度開けられて
いて、無造作にまた詰め直されていた。まわりから服の裾がはみ出している。

 家に帰って開けてみると、コロンブス到来前時代の彫像の複製はことごとく
割ってあり、買ったばかりの白い綿のメキシコ・シャツはど真ん中に無気味な
ブーツの足跡が押されていた。服はもはやメキシコの匂いはしなかった。空港
の臭いがした。

 眠れたものではない。冗談じゃない。誰かにぶちまけずにはいられなかった。
こんな話を聞いてくれる相手は一人しかいない。さいわい彼女はこの時間でも
起きているのがふつうだった。

 マヤがグーグルに来たのは、グレッグの半年あとだった。現金を持って辞め
たとき、メキシコに行くよう説得してくれたのがマヤだった。存在を再起動で
きるところなら、どこでもいいのよ。

 マヤはチョコレート色のでっかいラブラドル・リトリーバーを二頭飼ってい
て、それはそれは辛抱強いローリーというガールフレンドがいた。ローリーが
唯一がまんできないのは、よだれを垂らしている体重150キロの犬に、朝六時
のドロレス・パークを引きずりまわされることだった。

 グレッグがジョギングで向かってゆくと、マヤは催涙ガスのボンベに手を伸
ばしたが、見直してわかったらしく、大きく腕を広げて迎えてくれた。犬のひ
もは地面に落とし、スニーカーで踏みつける。

 「どこに休暇に行ってたのよ。豪勢に灼けてるじゃないの」

 ハグを返したが、急に自分の匂いが気になった。グーグルにぐいぐい突っ込
まれてひと晩すごしたせいか。

 「マヤ、グーグルとDHSはいったいどうなってるんだ」

 そう聞いたとたん、マヤの体が固くなった。片方の犬が泣き声を立てはじめ
た。マヤはあたりを見まわしてから、テニス・コートにあごをしゃくった。

 「あそこの照明灯の柱のてっぺん。見ちゃダメ」マヤが言う。「あれはウチ
の市内用 WiFi アクセス・ポイントよ。広角ウエブ・カメラ付き。話すときは
あれから顔をそむけて」

 全体として見た場合、市内にウエブ・カメラ網を張りめぐらすことは、グー
グルにとってたいしてカネはかからなかった。すわっている場所にふさわしい
広告を提供できる能力を考えれば、むしろ朝飯前だ。アクセス・ポイントに付
けられたカメラが全部一般開放されたときも、グレッグはたいして注意を払わ
なかった。なんでも見える新しい玩具をみんなが手に入れて、まる一日、ブロ
グ嵐が吹きあれたぐらいだ。娼婦たちが徘徊する地域をあちこちズーム・アッ
プしたからだが、しばらくするとその熱も自然におさまった。

 自分でもバカだと思いながら、グレッグはつぶやいた。

 「ウソだろ」

 「いらっしゃい」

 マヤは言って、柱に背を向けた。


 犬たちは散歩が途中で打ち切られたのが不満で、マヤがコーヒーを入れてい
るキッチンで、怒りをぶちまけた。

 「会社は DHS と妥協したのよ」ミルクを取りだしながら、マヤが言った。
「向こうはウチの検索記録をフィッシングするのをやめることにして、こちら
はユーザーに提示される広告を見せることにしたの」

 グレッグは気分が悪くなった。

 「なぜだい。ヤフーがやってるから、なんてのはかんべんしてくれよ」

 「ちがう、そうじゃないわ。まあ、確かにヤフーはやってたけどね。でも
グーグルがつきあった理由はそれじゃないわ。共和党はグーグルを毛嫌いして
るでしょ。ウチは圧倒的に民主党支持よ。だから共和党とはできるだけ波風が
立たないようにしてるわけ。ぶったたかれないようにね。広告は PII じゃな
い」――個人識別情報=パーソナル・アイデンティフィケーション・インフォ
メーション、情報時代の有毒スモッグ――「ただのメタ・データよ。だから、
悪だとしてもほんの少しだけよ」

 「じゃ、なんでこんなにこそこそするんだ」

 マヤはため息をつき、犬を抱きしめた。そいつは大きな頭をマヤの膝にどん
どん叩きつけていたのだ。

 「スパイはまるでシラミよ。どこにでも入りこんでくる。こっちの打ち合わ
せにも出てくるわ。まるでソ連の役所みたいよ。それに保安証明があるわ。あ
たしたちは二つのグループに分けられてるのよ。安全が証明された人間と疑い
のある人間。だれが証明をもらってないか、みんな知ってる。でもその理由は
わからない。あたしは証明をもらってる。ありがたいことにレズだってだけ
じゃ、きょうび失格にはならないからね。証明をもらってる人間はだれも、も
らえない人間とは食事したがらないのよ」

 グレッグはどっと疲れるのを感じた。

 「するとぼくが空港から生きて出られたのは、運が良かったってことか。ヘ
タをすると『失踪』してたかもしれないわけか」

 マヤはじっと見つめてきた。グレッグは答えを待った。

 「どうしたんだ」

 「これから言うことはぜったいにだれにも漏らしちゃダメよ」

 「え……きみがテロ組織の支部だってんじゃないだろうね」

 「そんな単純なもんじゃないわ。こういうことよ。空港の DHS 審査は篩い
分けなのよ。それでスパイのほうは捜査の範囲を絞れるわけ。入国で二次審査
室に引張りこまれたら、あなたは『要注意人物』になるのよ。そうすると無罪
放免されることはありえなくなるの。あなたの顔と行先はウエブ・カメラで追
跡される。メールは読まれる。検索はモニターされるわ」

 「裁判所はそんなことは禁じてると前に言わなかったか――」

 「裁判所が禁じてるのは、あなたを無差別にググることだけよ。でもあなた
は結局システムの中にいるのよ。だから選択検索になる。全部合法よ。そして
一度ググりはじめれば、何かしら見つかるわ。あなたに関するすべてのデータ
は大きな漏斗に流しこまれて『疑わしいパターン』にあてはまるかどうかチ
ェックされる。統計的な標準からはずれているというのでつかまえるわ」

 グレッグは吐き気を覚えた。

 「いったいどうしてこんなことになったんだ。グーグルは良いところだった
じゃないか。『悪になるな』だったんじゃなかったのか」

 それが会社のモットーだった。そしてグレッグにとっては、スタンフォード
でコンピュータ科学の博士号を取ってからまっすぐマウンテン・ヴュー市に
行った動機の、実に大きな部分をそのモットーは占めていたのだ。

 マヤはぎすぎすした笑い声を立てた。

 「悪になるな、ですって。よしてよ、グレッグ。ウチの社のロビィストはみ
んな隠れファシストよ。高速艇キャンペーンでジョン・ケリィの足もとをすく
おうとしたやつらと同じ穴のムジナよ。とっくの昔に悪のサクランボを口にほ
うりこんでるわ」

 たっぷり1分間沈黙がつづいた。

 「そもそものはじまりは中国よ」とうとうマヤが口を開いた。「ウチのサー
バ群を本土に置いてしまってから、中国の支配下に入ったのよ」

 グレッグはため息をついた。グーグルの射程距離は知りすぎるくらいに知っ
ている。グーグルの広告がついているページを訪問するたびに、あるいはグー
グル・マップやグーグル・メールを利用するたびに、いや、Gメールのアカウ
ントにメールを送るだけでも、会社はその人間の情報をせっせと集めている。
近頃ではサイトの検索最適化ソフトはそのデータを使って、ウエブ検索を個々
のユーザ向けに仕立てはじめてもいる。独裁政府なら他にもいろいろ使い道を
考えるだろう。

 「連中はウチを使って国民のプロフィールを作っているのよ」マヤが続けた。
「誰かを逮捕したくなるとやってきて、手入れをする理由を探すわけ。中国
じゃ、ネット上で非合法じゃないことをやろうとしても、ほとんどなにもでき
ないわ」

 グレッグはかぶりを振った。

 「なんで中国にサーバー群を置く羽目になったんだ」

 「そうしないとウチをブロックすると政府が言ってきたのよ。それにヤフー
が行ってたからね」

 二人とも、顔をしかめた。グーグルの従業員はいつの間にかヤフーのことと
なると冷静ではいられなくなっていた。自分たちの会社のふるまいよりも、競
争がどうなっているかの方が気になるのだ。

 「だから、そうしたのよ。みんな、いやいやだったけどね」

 マヤはコーヒーをすすってから低い声でつづけた。片方の犬がグレッグの椅
子の下をしつこくくんくん嗅いでいる。

 「その直後よ、中国はウチの検索結果を検閲しろと言ってきた。グーグルは
応じたわ。会社の口実は爆笑ものよ。『わが社は悪をおこなっているのではな
い――消費者によりよい検索ツールを提供しているだけだ。アクセスできない
検索結果を消費者にわが社が示せば、消費者は欲求不満に陥るだけである。こ
れはユーザー体験としてはよろしくない』」

 「で」

 グレッグは犬を押しのけた。マヤは傷ついた顔をした。

 「で、あなたはいまや要注意人物なのよ。あなたにはグーグルがストーカー
になってるわ。今、あなたは24時間、誰かに肩越しに覗き見されている。社是
は知ってるでしょ。『全世界の情報を組織化しよう』。何もかもよ。5年も
経ってごらんなさい。トイレで流す前のウンコの量までわかるようになるわ。
そのことと、統計に基く悪い人間像に適合する人間はだれでも自動的に疑うこ
とを足してみれば、あなたは今――」

 「グーグル詰めにされてるわけか」

 「頭の先までドップリとね」

 マヤは2頭のラブラドルを廊下の先の寝室に連れていった。ガールフレンド
と口論している声がドア越しに聞こえ、それからマヤだけがもどってきた。

 「ひとつ方法があるわ」マヤはせっぱ詰まった声でささやいた。「中
国が人間狩りをはじめた時、ポッドメイトたちと一緒に、やつらにひと泡ふか
せてやることを2割プロジェクトにしたのよ」(グーグルの革新的な経営方針
のひとつとして、全従業員が各自の時間のうち2割を、高尚な目的のために使
わなければならないことを規則にしたことがある)「グーグルクリーナーとい
うのよ。データベースの奥まで行って、あなたを統計的に正常化する。あなた
の検索、Gメールの度数分布、ブラウジングのパターン、全部よ。グレッグ、
あなたにグーグルクリーナーをかけてあげられるわ。それしかないのよ」

 「きみに迷惑をかけたくない」

 マヤはかぶりを振った。

 「あたしの行先はもう決まってるのよ。あの代物を立ちあげたときから、毎
日が執行猶予なのよ。あとはただ、あたしのスキルと経歴を誰かが DHS に指
摘するのを待ってるだけ。あとはどうなることか。この抽象名詞が相手の戦争
であいつらがあたしみたいな人間にやってることをされるだけよ」

 グレッグの頭に空港の情景がよみがえった。捜索。シャツ。ど真ん中に押さ
れたブーツの跡。

 「たのむ」


 グーグルクリーナーの利き目は驚異的だった。検索結果とともに出てくる広
告を見ればわかる。あきらかに誰か別の人間に向けたものだ。インテリジェン
ト・デザインの存在を示す各種データ、オンライン神学学位取得コース、テロ
のない未来、ポルノ・ブロック・ソフト、ホモセクシュアルアジェンダ、ト
ビィ・キースのコンサート・チケット安く売ります。マヤのプログラムはこう
いうぐあいに動いていたのだ。グーグルの新しくパーソナライズされた検索機
能では、グレッグにはまったくの別人、カントリー好きで、神をおそれる右翼
のラベルがついているわけだ。

 それはそれでかまわなかった。

 しかし、アドレスブックをクリックしてみると、連絡先の半分が消えていた。
Gメールの受信箱はシロアリに食いつくされた切株さながらに空っぽだった。
オルカットのプロフィールも標準化されていた。カレンダー、家族写真、ブッ
クマーク、全部空だった。自分がどれほどまで大きくウエブに移住し、グーグ
ルのサーバー園に深く依存しているか、まるでわかっていなかったのだ。オン
ライン上で個人を識別するものは全部じゃないか。マヤは実にきれいに消して
くれたものだ。これでままるで透明人間だ。


 グレッグが半分寝ぼけながら、ベッド脇のノートのキーボードを叩くと、画
面がよみがえった。ツールバーに点滅している時計に目を細める。午前4時半
だって。こんな時間にドアをどんどん叩くヤツはだれだ。

 だるそうに「いまいくよ」と叫び、ローブを羽織り、スリッパをつっかけた。
廊下を進みながら、明かりをつける。ドアにたどり着き、のぞき穴から外を見
るとマヤがむっつりと見つめ返した。鎖をはずし、錠をまわして、ドアを引き
開ける。マヤはさっと脇を通り抜けて入りこみ、犬とガールフレンドが続いた。

 マヤは汗びっしょりで、ふだんはていねいにくしけずられている髪は、額に
べっとりと貼りついている。マヤが眼をこすった。その眼は充血し、隅には皺
がうき出ている。

 「旅のしたくよ」

 かすれた声で言う。

 「なんだって」

 マヤはグレッグの肩をつかんだ。

 「なんだっていいから」

 「どこへ行こうと……」

 「メキシコね、たぶん。まだわからない。とにかくしたくしてよ」

 マヤはグレッグを押しのけて寝室に入り、手当たり次第に抽斗を開けはじめ
た。

 「マヤ」グレッグは鋭い声を出した。「事情を話してくれるのでなければ、
どこへも行かないぞ」

 マヤはにらみ返し、額から髪の毛をよけた。

 「グーグルクリーナーが生きてるのよ。あなたをきれいにした後、あたしは
あれをシャットダウンして、近よらないようにしたのよ。もう危なすぎて使え
ないわ。でも、動いたときにはあたしにメールが届くようにしておいた。そし
たら、誰かが6回使ったのよ。消したアカウントは3つ――全部がたまたま上
院通商委員会のメンバーで、再選対象よ」

 「グーグルの社員が上院議員を中傷してるのか」

 「社員じゃないわ。サイトの外から来てるのよ。IP ブロックの登録先は D.C.
よ。その IP は全部メール・ユーザ。で、アカウントが誰のものだと思う?」

 「Gメール・アカウントを覗き見したのか」

 「あら、ええ、覗いたわよ。連中のメールを覗きました。誰だって時々やっ
てるわ。それもあたしなんかよりずっと悪辣な動機でね。とにかく聞いてよ
――全部うちのロビィング会社が指示してたのよ。連中は仕事に精出してたわ
け。わが社の権益を守ってただけね」

 グレッグのこめかみがどきどき言いだした。

 「どこかに知らせなくては」

 「ムダよ。あたしたちのことは全部知られてる。ありとあらゆる検索を見ら
れてるのよ。ありとあらゆるメールも見られてる。ウエブ・カメラに写るたん
びにそれもわかる。社会の中で誰と繋がってるか……あなた、自分にオルカッ
トの友人が15人いること、知ってる? 『テロリスト』の大儀に資金援助して
る人間まで、三段階以内でたどり着けるのは統計的に確実よ。空港のことは忘
れたの? あなたはそれだけじゃすまないわよ」

 ようやく事情がのみこめてきた。

 「マヤ、メキシコへ行くなんてのはやりすぎじゃないか。会社を辞めればい
いさ。新しくやりなおすかなにかできる。こんなのは気狂い沙汰だ」

 「今日、あたしんとこへ来たのよ。DHS の政治担当者が二人。何時間もね
ばってったわ。いやあな質問を山ほどされたのよ」

 「グーグルクリーナーについてかい」

 「あたしの家族と友人。検索履歴。これまでの経歴」

 「なんてこった」

 「やつらが言ってたことはひとつ。クリックするたびに、検索するたびに見
張ってるのよ。もうたくさん。手のとどかないところに行かなくちゃ」

 「メキシコにもグーグルの支社はある」

 「とにかくどこかに行かなくちゃいられないの」

 マヤは頑固だった。

 「ローリー、きみはどう思う」

 グレッグはたずねた。

 ローリーは犬たちの肩の間を叩いた。

 「あたしの両親は65年に東ドイツを出たよ。シュタージのことをよく聞かさ
れた。秘密警察は何もかもファイルにしてた。非愛国的な冗談を言ったかとか、
何でもね。そのつもりがあったかどうかしらないが、グーグルがつくり出して
るのはまるで同じだね」

 「グレッグ、あなたは来ないの」

 グレッグは犬たちを見て、それからかぶりを振った。

 「まだペソが少し殘ってる。持ってけ。気をつけてな」

 マヤは今にも殴りかかりそうな顔をした。ふっと力を抜くと、獰猛なまでに
抱きしめてきた。耳元でささやく。

 「そっちこそ、気をつけて」


 グレッグのところに来たのは1週間後だった。真夜中に自宅にやってきたの
は、予想していた通りだった。午前2時少し過ぎ、二人の男が玄関先に来た。
片方は黙ってドアの脇に立った。もう一人は背が低く、ぼさぼさの髪をし、笑
みを浮かべている。着ているショート・コートの片方の襟には染み、もう片方
アメリカ国旗がついている。

 「グレッグ・ルピンスキィ、きみはコンピュータ詐欺および不正使用法に違
反していると信じられる理由がある」

 自己紹介代わりに切り出した。

 「とりわけ、権限超過アクセスと当該手段による情報取得だ。初犯なら10年
だよ。きみときみの友人がきみのグーグル記録にたいしておこなったことは重
罪だ。ああ、それに裁判ではいろいろ明るみに出るだろうな……まずはきみが
塗りつぶしたプロフィールにあったことが出てくるな」

 この1週間、グレッグはこのシーンを頭の中で何度も繰りかえしていた。勇
ましいことをあれやこれや言ってやろうと計画を立てていた。マヤからの連絡
を待つ間、それで時間をつぶすことができた。連絡はついになかった。

 「弁護士をよびたい」

とつぶやくのが精一杯だった。

 「それもいいがね、もっといいやり方があると思うよ」

 グレッグは自分の声をとりもどした。

 「バッジを見せてくれ」

 どもりながら言う。

 バセット・ハウンドに似た男の顔が明るくなり、おもしろそうに笑いをもら
した。

 「おいおい、あたしは警官じゃないよ。コンサルタントなんだ。グーグルに
雇われてるのさ。あたしの会社はワシントンでグーグルの権益の代理人をして
いる。つまりコネをつけるのが仕事だ。もちろん、まずおたくと話してからで
ないと警察を巻きこむことはしない。そもそもおたくは仲間内じゃないかね。
おたくにオファーをしようと言うんだ」

 グレッグはコーヒー・メーカーに向きなおった。古いフィルターを捨てる。

 「マスコミに出してやる」

 男は検討してみようというようにうなずいた。

 「結構だ。朝になったらクロニクル紙に行って、洗いざらいぶちまけてもい
い。すると、連中は確認のとれる情報源を求めるだろう。が、見つからんだろ
うね。それに、その件で検索をかければ、われわれにわかる。だから、なあ、
最後まで話を聞いてくれないかね。あたしは一挙両得を仕事にしてるんで、こ
の道ではベテランなんだよ」

 男はそこで口を切った。

 「ところで、それはずいぶんいい豆だね。ちょっとすすいでやらないのかね。
苦味がいくぶん減るし、脂分もとれるよ。ええと、水切りザルを貸してくれな
いか」

 グレッグが見ていると、男は黙って上着をぬいで椅子の背にかけ、シャツの
カフスをはずしてていねいにまくり上げ、安物のデジタル時計をはずしてポ
ケットに入れた。グレッグが渡した水切りザルにミルから豆をあけ、流しです
すいだ。

 男は少し太りぎみで、ひどく顔色が白い。電気技師の社交マナーをそなえて
いる。細かいところに異常にこだわるのは、実のところ、本物のグーグル社員
に見えた。

 コーヒー・ミルの扱い方も心得たものだった。

 「われわれは49号棟チーム・メンバーの選抜をしているんだ……」

 「49号棟なんてないじゃないか」

 反射的にグレッグは口をはさんだ。

 「当然だよ」男の顔が一瞬、笑いに引きつった。「49号棟なんてない。ただ
われわれが編成しているのはグーグルクリーナーを改良するためのチームなん
だ。マヤのコードはあまり能率が良いものじゃなかったことはわかるだろう。
バグだらけだ。アップグレードが必要だ。おたくは適任だ。それに社内にも
どってしまえば、おたくが何を知っていようと問題ではなくなる」

 「信じられないね」グレッグは笑ってしまった。「便宜をはかってもらうか
わりに特定の候補者を中傷することにぼくが手を貸すと思ってるんなら、あん
たらは思ってる以上に気が狂ってる」

 「グレッグ、われわれは誰かを中傷するわけじゃない。ただ、少々掃除をし
ているだけだ。特定の人たちの身のまわりの掃除だよ。わかるかね。どんな人
間にしても、グーグル・ファイルを細かく調べれば多少とも気味の悪いものだ
よ。ところが細かく調べるのは政治の世界の風潮だ。立候補することは公開で
大腸内視鏡検査を受けるようなもんだ」

 男はコーヒー・メーカーに挽いた豆を入れて湯を注ぎ、レバーを押し下げた。
集中して引きしまった表情は厳粛といってもよかった。グレッグはコーヒー・
カップ――もちろんグーグル・マグ――を二つ取りだして渡した。

 「われわれはマヤがおたくにしてやったことを、われわれの友人たちにして
やっているのさ。ちょっとした掃除だよ。われわれが求めているのは、その友
人たちのプライヴァシーを守ることだけだ。他にはなにもない」

 グレッグはコーヒーをすすった。

 「あんたらが掃除しない候補はどうなるんだ」

 「そうだな」男はうすく笑った。「そう、その通りだよ。その連中にとって
はいささかきついことになるだろうね」

 男は上着の内ポケットを探り、折りたたんだ紙を数枚とりだした。紙を伸ば
し、テーブルの上に置く。

 「われわれが助けようとしている善玉のひとりだ」

 それは過去3回の選挙でグレッグも選挙運動を手伝った候補の、検索結果の
プリントアウトだった。

 「戸別訪問運動の最中、それはそれはつらい一日を終えてホテルの部屋にも
どると、ノートを立ちあげ、検索窓に『セクシーなお尻』とうちこんだ。だか
らどうしたってもんだろ。たったこれだけのことで、ひとりの善良な男が国の
ために働く資格がないってことにされるのは、われわれに言わせれば非アメリ
カ的でしかない」

 グレッグはゆっくりとうなずいた。

 「この男に手を貸してくれるかね」

 「貸すよ」

 「結構。もう一つある。マヤを探しだすのを手伝ってもらわにゃならん。マ
ヤはわれわれの目的がまったくわかっていない。それで今、逃げてしまってい
るようなんだ。われわれの話をきちんと聞いてくれさえすれば、マヤも考え方
が変わるはずだ」

 グレッグは候補者の検索結果に目を落とした。

 「かもしれない」


 新しい議会は11日間の審議の後、アメリカの通信とハイパーテキストのリス
トアップおよび安全を確保する法律を通過させた。これによって DHS と NSA
は、情報収集と分析の業務の8割までを民間に外部委託することが認められた。
理論的にはこの契約は競争入札になっていた。が、厳重に守られたグーグルの
49号棟の中では、契約を勝ち取るのがどこか、あやしんでいる者はいなかった。
悪者を水際で捕まえる事業に150億ドルをつぎこむのがグーグルならば、悪者
をちゃんと捕まえてくれると頼りにできる――政府には「きちんと調べる」仕
組みがないのは明らかだ。

 翌朝、グレッグは髭を当たりながら(警備担当はハッカー風の不精髭が気に
入らず、そのことを口に出すのも遠慮がなかった)、注意深く自分の格好を点
検した。そして今日は自分が事実上連邦政府の諜報員として働く最初の日であ
ることに思いあたった。それってどれくらい悪いことなのだろうか。ハムみた
いな手をした DHS のサラリーマンではなくて、グーグルにこの仕事をやらせ
るのはマシなことだろうか。

 グーグルシティのどんどん広くなっている自転車置き場とハイブリッドカー
の群れの間に車を駐めるころには、グレッグは自分を納得させていた。社食で
注文するオーガニックのスムージーの種類をどれにしようかと考えながら、49
号棟のドアにキーカードを通した。反応がない。カードをスリットに通すたび
に、何も起こらず、赤いランプが点くだけだ。他の建物なら、誰かのすぐ後に
ついて入ることもできる。人の出入りは絶え間ないからだ。が、49号棟では食
事の時にしか、人は出てこない。それすらない時もある。

 何度も繰りかえしスリットに通す。いきなり、脇で声がした。

 「グレッグ、ちょっと話がある」

 例のぼさぼさ頭が肩に腕をまわしてきた。シトラスのアフターシェーブロー
ションの香りがした。バハで夕方になってバーに行く時の、スキューバ監督者
の匂いに似ていた。監督者の名前も思い出せない。フアン・カルロスだったか。
アン・ルイスだったっけ。

 肩にまわされた腕は力が強く、グレッグはドアの前から脇へそらされて、厨
房外のハーブ・ガーデンを過ぎ、きちんと刈りこまれた芝生の上まで連れてい
かれた。

 「おたくには2、3日、休暇が出ている」

 男が言った。

 グレッグは急に不安になった。

 「なぜ」

 最近何かまずいことをしたか。刑務所に入れられるのか。

 「マヤだよ」

 男はグレッグの向きを変え、底知れぬ眼でグレッグの目を見据えた。

 「自殺した。グアテマラだ。残念だよ」

 グレッグはさあっと上に引き上げられるように感じた。何キロも上空から、
グーグル・アースでグーグルシティを見おろしているようだ。そこから見ると、
自分自身とぼさぼさ頭は二つの点、2ピクセルでしかない。ちっぽけな、吹け
ば飛ぶような点。グレッグは意志の力をふりしぼって髪の毛をかきむしり、ひ
ざまずいて、泣いた。

 遙か遠くから、自分の声が聞こえた。

 「休暇なんかいらない。大丈夫だ」

 遙か遠くから、ぼさぼさ頭が休めと言い張るのが聞こえた。

 言い争いは長い間つづいた。それから二つの光の粒は49号棟の中に入り、そ
の後ろにドアがぴしゃりと閉まった。




Scroogled
by
Cory Doctrow


原文
Radar Magazine September 12, 2007


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